5.4.1 はじめに
当研究所は、ペタフロップスマシン技術を念頭に置いたハイエンドコンピューティング技術に関する調査研究を行っており、その結果は、資料「ペタフロップスマシン技術に関する調査研究3」にまとめている。そこには、近年のデバイス技術の急速な進展に伴う環境変化を、アーキテクチャ/ソフトウェア/アプリケーション分野はどう受け止め、研究開発を実施すべきかを産官学の専門家の委員によって検討した結果と、当研究所員の調査による米国連邦政府支援のハイエンドコンピューティング研究開発動向が記述されている。本稿では、後者の要約を述べることとする。詳細ならびに前者については、本編を参照されたい。
米国の調査は、CIC研究開発小委員会のBlue Book、大統領予算教書、OSTP発表資料など、インターネット上で入手できる情報、及び海外調査による情報などを参考にしている。
5.4.2 背景
米国では、情報技術分野で世界を凌駕することは国是であり、国を挙げて情報技術のレベルアップを行おうとしている。その中で、情報技術のインフラとなりうるハイエンドコンピューティング技術の研究開発は政府主導の色合いが最も強いものの一つである。ペタフロップスコンピューティングはそのフロントランナーであり、今や国家科学技術委員会(NSTC)の管轄するHPCC(High Performance Computing and Communication)計画の主要な柱を形成している。これらの動きは、大統領直属情報技術諮問委員会(PITAC)の答申、それを受けた2000年度大統領予算教書などで強力に加速されようとしている。
米国に限らず、ハイエンドコンピューティング分野は市場規模が小さく、そこでの研究開発投資がすぐに利益に結びつかないことから、民間での自主研究は成立しにくい。米国政府の高速コンピューティング領域を育成する戦略は、すべてのアプリケーションに対応できるコンピュータシステムとして、スカラー型並列システムを指定し、ビジネスアプリケーション分野など、その適応市場規模を拡大するとともに、ソフトウェアを初めとし、MPUなど構成要素に至る総合的な技術の底上げをねらっている。その最先端領域としてハイエンドコンピューティング研究開発が位置づけられていると考えられる。
さらに、米国ではハイエンドコンピューティング環境をより多くのユーザに提供する仕組みの構築が真剣に考えられている。
5.4.3 米国ハイエンドコンピューティング研究開発政府組織
米国の情報技術研究開発政策組織の中核は、各省庁長官など政府高官で構成される国家科学技術委員会(NSTC)の中の、テクノロジ委員会(CT)である。CTは、1997年12月にNSTCの改組が行われた際に、NSTCに属していた3委員会が統合し、再編された。CTに属するCIC研究開発小委員会は、情報通信技術の具体的研究開発政策を立案し、そのため、改編前から存在している次の5つの分野を受け持つワーキンググループを有している。
(a) HECC (High End Computing and Computation)
(b) LSN (Large Scale Networking, including the Next Generation
Internet initiative)
(c) HCS (High Confidence Sysytems)
(d) HUCS (Human Centered Systems)
(e) ETHR (Education, Training, and Human Resources)
5.4.4 米国ハイエンドコンピューティング研究開発政策
ハイエンドコンピューティング分野に関連する政策は、1991年に成立したHPC(High Performance computing) Actを主なよりどころとして、強力に推進されてきた。さらにその強化のため、1997年2月、大統領直属情報技術諮問委員会(PITAC)がクリントン大統領により設立された(設立当初はPAC)。PITACは、Bill JoyとKen Kennedyを共同委員長とし、選任された委員は産業界と大学から広く選出された26名の専門家である。
1998年6月、PITACは、全ての米国民の生活の質と水準を常に向上させることを名目とし、情報通信およびIT技術研究への公的投資を著しく増加すべきであると大統領に提言した。さらに、1998年8月、中間報告書において、研究開発投資イニシアティブ(「副大統領1999」で表明されたInformation Technology for the Twenty First Century (IT2))に関して、科学技術補佐官に指針を提示した。1998年9月、PITACはそのメンバと他の非政府専門家でなる6つのパネルを召集し、中間報告の提案を精密化し、最終報告として、1999年2月に大統領に提出した。
PITACの報告をもとに、2000年度大統領予算教書において、クリントン大統領とゴア副大統領は情報技術研究の政府投資の大幅な強化を表明した。これが、「21世紀に向けての情報技術」(IT2:"IT Squared":Information Technology for the Twenty-First Century)と呼ばれる新公約である。ここでは、従来のHPCC予算とは別枠で、前年度HPCC予算の28%増加に相当する$366Mを支出するよう記述されている。重点項目が以下のように指摘されている。
(a) 長期的情報技術研究
・インターネットにつながった政府投資のように情報通信基盤の優位を導く
(b) 科学、工学および国家のための先端コンピューティング
・医薬品の開発期間短縮、低公害・高効率エンジンの設計、竜巻の高精度予測のブレークスルーをもたらす
(c) 経済・社会に生じる情報革命の研究
・大学での増加するIT技術者の訓練を助長する努力
IT2を推進する省庁は、NSF、国防総省(DARPAを含む)、DOE、NASA、NIH、NOAAである。約60%の投資は、大学ベースの研究支援である。
投資対象の研究分野は、基礎研究(ソフトウェア、ハイエンドコンピューティング等)、先端技術(インフラ、シミュレーション等)、経済・社会への影響であり、期待される成果として、次の項目が挙げられている。
(a) 人間の言葉で会話し、理解するコンピュータ;リアルタイムで正確な多言語翻訳
(b)「インテリジェントエージェント」による情報収集・要約
(c) 全世界からアクセスできるスーパーコンピュータによる広範な科学的・工学的発見
(d) 何千万のコンピュータだけでなく、何千億の機器を接続するようにできるネットワー ク
(e) ペタフロップスコンピュータ、バイオもしくは量子コンピューティングのような根本的に異なる技術に基づくコンピュータ
(f) 高信頼、保守容易な複雑なソフトウェアを開発したり、電話回線、電力網、金融市場、インフラのコア要素をより高信頼にする新しい手法
5.4.5 米国ハイエンドコンピューティング研究開発政府予算
大統領予算教書の中で、HPCC予算は、主要な個別予算の一つとして取り上げられ、NSTC所管となっている。2000年度のHPCC予算は$1,462M(1,754億円、1$=120円換算)である。各省庁の内訳を表に示すが、DOE予算が飛び抜けているのが分かる。ちなみに、米国全研究開発予算$78,242M(約9兆3,890億円)中の非軍事関連予算は$39,761M(約4兆7700億円)である。
表 2000年度HPCC予算 ($M)
省庁 |
DOD |
NIH |
NASA |
DOE |
NSF |
商務省 |
EPA |
合計 |
予算額 |
207 |
115 |
136 |
659 |
314 |
27 |
4 |
1,462 |
DOE予算の大幅な増加は、1998年度、元々DOE独自のプログラムであったASCI(Accelerated Strategic Computing Strategy)がNSTCすなわちCIC研究開発小委員会所管になったことが原因である。 DOEの1998年度以降の予算内容を次表に示すが、非軍事予算は1997年度とそれほど変化はないが、軍事予算であるASCIへの支出が飛び抜けて大きくなっていることがわかる。
表 DOEのHPCC関連予算の内訳 ($M)
予算種別 |
1998 Actual |
1999 Estimated |
2000 Proposed |
Energy(Civilian Program) |
115 |
126 |
116 |
Energy (ASCI) |
374 |
484 |
543 |
計 |
489 |
610 |
659 |
ASCI: Advanced Strategic Computing Initiative * 2000年度予算教書 114ページ
2000年度には、前出のIT2が新イニシアティブとして新たにスタートし、強力に推進されようとしているが、予算教書には、Information Technology InitiativeとしてHPCC予算とは別に、次表に示す総額$366Mの予算が計上されている。
表 IT2 予算 ($M)
省庁 |
NSF |
DOD |
NASA |
NASA |
商務省 |
NIH |
計 |
予算額 |
146 |
100 |
70 |
38 |
6 |
6 |
366 |
* 2000年度予算教書 108, 117ページ
5.4.6 米国ハイエンドコンピューティング研究開発技術動向 (1999年度Blue Book)
Blue Bookは、CT(旧CIC委員会)が編纂し、大統領予算教書作成のため大統領府に毎年提出される研究開発計画書である。そこでは、HECC研究開発の米国連邦政府のミッションニーズは、国家の安全、環境/気候/気象、航空探査と宇宙探査、エネルギー研究 (太陽、燃焼、核融合) であるとされている。さらに、HECC推進の原動力となる社会的アプリケーションは、保健医療、危機管理/自然災害警告、長期的な環境・エネルギー管理、教育と生涯学習が挙げられている。
上記の目的を達成するため、HECC研究テーマを次のように規定している。
(a)物理的・化学的・生物学的モデリングおよびシミュレーションのためのアルゴリズム
(b)大量の情報を必要とする科学・工学のアプリケーション
(c)量子・生物・光コンピューティングの先進概念
このような思想のもとに行われている連邦政府のHECC研究開発の成果として、スケーラブルな並列処理の確立、超並列システムの創出、科学的基礎 (教育訓練を受けた人材、アーキテクチャに関する新しいアプローチ、次世代技術など)の創出、20億ドル規模のミッドレンジ高性能コンピューティング市場の技術的基礎の実現、政府の経費削減、ASCIプログラムの短期的技術目標実現が挙げられている。
現在の目標は、1ペタフロップス の持続的処理速度の実現である。適切な資金と技術的な注目が集まり重要視されることにより、この目標は2007年までに達成されると示唆されている。
現在実行中のプログラムの柱となるのは、DOEのASCIプログラムであるが、さらに、注目すべきコンピューティングアーキテクチャとして、DARPAのウルトラスケールコンピューティング(量子コンピューティング、分子コンピューティング、DNA論理演算、アモルファスアルゴリズムなど)、DOEのMTA (Multi-Threaded Architecture)、NSAのHTMT(Hybrid Technology MultiThreaded architecture)があげられている。
5.4.7 ASCI プログラム
1995年6月、10年で10億ドルの予算支出を予定したASCIプログラムは、4年目を迎え、2004年100 Tflopsに向けて順調にマイルストーンを達成している。大統領の予算教書によると、1998、1999、2000年度の3年間の総計だけで約14億ドルの支出予定となっている。1997年度の予算要求が約1.22億ドルなので、予算面でかなりAcceleratedになっている。
以下に、ASCIマシン開発の現状とソフトウェア、アプリケーション開発状況を記述する。
Intelが担当しているSandia国立研究所のRedは、唯一、分散メモリ型MIMDアーキテクチャを採用している。1998年11月のトップ500では、Rmax1.34 Tflops(理論ピーク性能1.83Tflops)で世界最速である。
IBMが1996年に$94Mで開発を契約したLivermore研のBlue-Pacificは、1998年10月、ピーク性能 3.88 Tflops(Livermore codeによる測定)を達成したことがゴア副大統領により直々に発表された。
Silicon Graphicsにより開発されたBlue-Mountainが、1998年11月、ピーク性能1.6 TeraOps を達成したことが発表されている。
IBMが受注したASCI Whiteは、10.2 Tflops達成をめざしたRS/6000SPであるが、2000年半ばに Livermore国立研究所に納入される予定である。512 nodesを有し、全必要電力6.2 Mwatts、設置面積1,579 m2(17,000 ft2)を必要とするため、新建屋を建築している。次の30 TflopsマシンはLos Alamos 国立研究所で開発される予定である。
CIC研究開発小委員会の計画には、DOEのASCI計画の一部であるASAPが組み込まれている。現時点では、ASAPは米国の大学と共同で、高性能シミュレーションの性能向上のため、次に示す研究開発を行っている。
(a) Stanford 大でのガスタービンエンジン設計用のシミュレーション技術
(b) California 工科大での高性能爆薬が引き起こす衝撃波の影響調査
(c) Chicago大での天体物理学的熱核融合発光をシミュレーションと解析
(d) Utah大/Salt Lake での偶発的な火災と爆発の数値シミュレーション
(e) Illinois大 (Urbana-Champaign)での固体燃料ロケットの完全システムシミュレーション
5.4.8 まとめ
米国においても、省庁の持っている権限は強大で、縦割りの弊害が生じるのは必然である。しかし、優先項目の選定、政策の整合性、予算配分などの決定をNSTCのCTやCIC研究開発小委員会に権限と責任を持たせて決定させることにより、未然に防止しようとしている。権限は、委員会答申の政策反映により効力を発揮する。責任は、委員個人の社会的評価に負うが、最終的な責任を大統領がとることより、すべてが解決されているように思われる。
情報技術強化政策の推進は、今や米国の遠い将来をにらむ基本方針になっており、基本となるシステム/ソフトウェア指向は政権が変わっても変わることはないと考えられる。また、研究領域としてのハイエンド/フロンティア分野は、政治、軍事、経済の各分野において、米国が世界で常に優位を保つために必要不可欠であり、長期的な研究開発重視政策においても、他国に比べ研究投資を緩和することは予想しがたい。
2000年度HPCC予算は$1,462M(約1,754億円)、IT2予算は$366M(約440億円)である。HPCC予算のうち半分近い$543MはDOEの軍事的計画であるASCIに支出され、さらに、DARPA関連の$207Mを差し引いた残りは、$712M(約854億円)となる。このような投資が一時的な景気対策ではなく、各省庁ミッション実現に必要な技術開発のため、ポリシーを持って継続的になされるところに米国情報技術研究の強みがあると考えられる。
米国ハイエンドコンピューティング技術のめざすところは、この先10年を見通すと1 Pflopsの計算能力であり、そのためのソフトウェア/ハードウェアの研究開発に注力している。その実現の原動力はDOEのASCIであることは間違いないが、さらにNSA、NASA、DARPAは超伝導素子やPIM(Processors-In-Memory)で構成されるHTMTアーキテクチャでペタフロップスを早期に達成しようとしている。これは、暗号解読、ネットワーク情報データマイニングなどのグローバルネットワーク戦略への適用を考えているのではないかと推察され、国家ミッションとしての研究開発テーマの存在がいかに重要であるかが示されている。さらに、量子コンピューティング、DNAコンピューティングなど、次世代のコンピューティングアーキテクチャ研究をひとまとめにし、1 Exaflopsを目標とした「ウルトラスケールコンピューティング」をDARPAが推進するなど、フロンティアを極める努力を怠っていない。
情報技術研究開発において、米国が最も意識しているのは日本であることは間違いない。それは、組織、予算、研究開発テーマ等が揃っているように見えるからである。
組織上、米国のOSTP、NSTC、PCASTに相当するものとして科学技術会議がある。また、科学技術基本計画により平成8年度から5年で17兆円の支出を予定し、平成11年度には科学技術全体で3兆1,552億円を支出する。さらに、科学技術庁主導の2001年度にピーク性能40 Tflopsを達成「地球シミュレータ」計画や、2004年度に1 Pflopsの速度を達成する理化学研究所の計画がある。
しかしながら、情報技術研究開発政策を米国と比較するとき、大いなる危惧をぬぐい去ることができない。それは、省庁横断型の科学技術振興調整費の予算枠の小ささ、科学技術会議の省際調整の実施段階でのボトムアップ方式の弱さが感じられるとともに、研究プロジェクトテーマが単発で、その先をにらんだグランドデザインが見当たらないことが挙げられ、さらに、これを払拭する情報が得られないからである。地球シミュレータや理研のコンピュータは、次にどのようにつながっていくのか明確な答えが見つからない。
米国の情報技術研究開発政策に関する情報は、インターネット探索だけで明確なコンセプトが入手でき、さらに、Implementation Planのように、HPCC関連の研究開発内容、テーマ毎の参加省庁名、予算の配分などが親切に記述されている文書が公開されており、上述のような危惧が生まれる余地を未然になくしている。
わが国においても、インターネットによる省庁の情報開示は、最近とみに著しいが、米国のように納税者への説明責任を前提とし、全体像とその根拠となる基礎データをわかりやすく提供しようという意欲は、結果として伝わってこない。
ハイエンドコンピューティング研究開発推進には、国民合意形成が最重要であることは言うまでもなく、それを達成するためには、政府から各研究機関に至る全ての階層で、より進んだ情報公開の努力が必要不可欠なものと考える。