(1) はじめに
インターネットが広く注目されはじめてから数年が経過し、インターネットやそれを利用するためのパーソナルコンピュータが普及するとともに、インターネットを利用した情報提供や新しいサービスの提供が行われるようになってきた。これにともない、従来、コンピュータとは縁のなかった人々が新しい利用者層を形成しつつあり、今後、現在開発が進められている電子図書館、電子商取引などの普及とともに、情報サービスの内容も大きな広がりを見せるものと予想される。21世紀に向けて、情報技術が社会に大きなインパクトを与えるようになることは間違いないと思われる。
しかしながら、このように人々を取り巻く情報環境が豊かさを増すと同時に複雑にもなり、その結果、利用者はその情報環境の全容を理解することが困難になってきている。さらに、望む情報を得るためのコンピュータの操作も、実際には宣伝文句ほど容易ではなく、ますます複雑になっていき、習得が難しくなっているという状況も一方では生じている。
このように、情報技術を取り巻く状況は大きく変わってきており、新たなニーズに応え、課題を解決するために、従来の情報処理の理論や技術を超えた技術革新が求められている。
インターネットに代表される開放型のコンピュータネットワークがさらに発展し、携帯型や組込み型を含むさまざまなコンピュータがネットワークで接続されるようになると、そのネットワークが通信を行う場としてだけでなく、それらのコンピュータが保持しているデータ群を巨大なデータベースとして捉えることができる。課題は、現実世界との関わりの中でネットワークから情報をうまく取り出したり、その情報を利用してコミュニケーションを効率化し、共同作業を円滑に進めるための新技術を開発し、種種の社会システムを知的に支援するソフトウェアを構築することである。
本節では、計算機とネットワークを通じた情報利用の知的技術、および、使いやすさや使い心地のよさを重視した知的なユーザインタフェース技術を中心に、日米の研究開発動向について概説する。
(2) 米国の研究開発動向
米国では、HPCC(High Performance Computing and Communications)計画の後継プロジェクトであるCIC(Computing, Information, and Communications)研究開発計画の中のHuman Centered Systems分野で、計算機システムと通信ネットワークのアクセスしやすさ、使いやすさの向上を目指したテーマが大規模に取り上げられている。この計画では、医療、教育、環境などさまざまな社会システムの分野に適用できる効率的で使いやすい情報環境の構築を目標とし、基礎研究からシステム開発まで幅広く行っている。
また、米国政府は、現在のインターネットの発展は2〜30年前に行われた政府の投資の結果であると認識しており、更なる進歩のために、今後もこの分野への投資を継続していく考えである。そこで、HPCC計画、CIC研究開発計画と続いた情報技術研究開発をさらに強力に推進するために、1999年2月、21世紀情報技術戦略IT2(Information Technology for the Twenty First Century)を発表した。
(a) CIC研究開発計画Human Centered Systems (HuCS)分野
CIC研究開発計画は、米国における計算機技術、情報技術、通信技術の研究開発を推進し、豊かな市民生活と米国経済の競争力を維持することを目標としている。
CIC研究開発計画の5つの分野のうち、Human Centered Systems (HuCS)分野は、これまでCIC研究開発計画予算の1/4程度が投資されてきた。HuCSの目標は、計算機システムと通信ネットワークのアクセスしやすさ、使いやすさの向上をもたらすことである。この目標は、大統領のイニシアティブUniversal Access to Information(だれでも容易に情報にアクセス可能にすること)に合致するものであり、米国が強力に研究開発を推進する分野のひとつになっている。研究対象として、共同研究室、知識リポジトリ、情報エージェント、マルチモーダル対話システム、仮想現実環境、ディジタルライブラリなどがある。以下では、CIC研究開発計画の1999年度のBlue Bookに基づいて、ディジタル・ライブラリ・プロジェクト・フェーズ2と人間可視化プロジェクトについて述べる。
ディジタル・ライブラリ・プロジェクト・フェーズ2
1998年に終了したディジタル・ライブラリ・プロジェクトに引き続いて開始された4年間のプロジェクトである。助成機関も、これまでの全米科学基金(NSF)、米国航空宇宙局(NASA)、国防高等研究計画局(DARPA)のほか、国立医学図書館(NLM)、議会図書館(LoC)、国立人文基金(NEH)が加わり、助成金も増額される。
この計画の目標は、ネットワークで接続され地球全体に分散した情報資源を有効に利用できるようにし、革新的アプリケーションの開発を促すことによって、基礎研究における米国の指導的地位を確立することにある。
ディジタルライブラリは、知的社会基盤として利用されるため、各分野における次世代の実用システムを創出するために各分野同士の連携を促進する効果を持つ。計画では特に、情報技術と各分野のニーズのすりあわせ、およびマルチメディアデータのような新しいタイプのコンテンツ、コレクションに重点がおかれ、テストベッドの構築により、情報の生成、アクセス、利用から、蓄積、保存に至る全ライフサイクルを対象とした研究開発を行う。
人間可視化プロジェクト(Visible Human Project)
人間の解剖学上の構造をディジタルイメージで蓄積するライブラリの構築を行うものである。1999年度は評価のフェーズに入っており、55ギガバイトにおよぶディジタル画像ライブラリの構築と評価を行う。このライブラリをアプリケーションと組み合わせることにより、教育ツールや手術の訓練ツール、あるいは、手術や治療の計画作成支援ツールにもなる。
(b) 21世紀情報技術戦略IT2(Information Technology for the Twenty First Century)
HPCC計画、CIC研究開発計画、NGI計画など情報通信分野での過去、現在の計画を土台に、長期的な基礎研究への大幅な支援を打ち出したものである。
研究開発項目は、計算機システムや情報システムを使いやすくし、信頼性、生産性を高める方法に関する重要な研究課題として、ソフトウェア、ヒューマン・コンピュータ・インタラクションと情報管理、スケーラブル情報インフラストラクチャ、ハイエンドコンピューティングが挙げられている。このうち、ソフトウェア、ヒューマン・コンピュータ・インタラクション、スケーラブル情報インフラストラクチャについて簡単に説明する。
ソフトウェア
高信頼で保守しやすいソフトウェアを開発するためのソフトウェア工学、エンドユーザプログラミングや部品ベースソフトウェア開発などの技術、自分自身を必要に応じて更新したり、必要な機能をダウンロードすることのできるアクティブソフトウェア、知的エージェントのような自律的ソフトウェアなどが重要な項目として挙げられている。
ヒューマン・コンピュータ・インタラクションと情報管理
計算機を使いやすくするために、話し、聞き、人間の言葉を理解するコンピュータが挙げられている。
スケーラブル情報インフラストラクチャ
将来のインターネットは、単なるコンピュータネットワークからデバイスのネットワークに発展すると予測されている。このため、何兆ものノードが接続されることになり、デバイスのいくつかは高速無線ネットワークで接続される。コンピュータのほかにセンサ、測位システム、その他実世界に関わるさまざまなデバイスが接続され、これらが日常利用するものの中に組み込まれる。これによって、いつでもどこでもネットワークを通じた情報利用が可能な環境が提供される。
(3) 知的情報システム技術研究開発の新しい展開
本項では、先端情報技術研究所の「人間主体の知的情報技術調査ワーキンググループ」(奥乃博主査)での議論に基づき、日本における知的情報システム技術のいくつかとその将来像について述べる。
社会の高度情報化により、われわれのまわりの情報環境は大きく変化しようとしている。たとえば、電子商取引の実用化により、ソフトウェアの利用や情報のアクセスに対して対価を支払う情報取り引きが進展するであろう。このことは、人々の情報アクセス行動に大きな変化をもたらすことになる。情報化はまた、身の回りに情報をあふれさせることにもなっており、効率よく必要な情報を得ることが重要になってきている。
また、社会のさまざまなところに計算機が利用されるようになってきており、多くの人にとって計算機が身近になるにつれ、計算機の専門家以外の人々も計算機を操作する機会が増えてきている。このことは、誰でもが容易に使える計算機への要求につながる。
このように、効率的な情報へのアクセス、利用、および、使いやすいユーザインタフェースに対するニーズは増加してきており、また、それに応えることが現在の知的情報システム技術の大きなテーマのひとつになっている。
(a) 知的情報システム技術の課題
計算機の能力を人間に近づけ、計算機に人間の代行をさせるという考え方から、計算機によって人間の知的能力をいかに支援し、強化するかという考え方に変わってきた。このように、人間の支援という観点から、情報利用と使いやすさを提供する知的情報システム技術の課題を以下に挙げる。
・ 見えないコンピュータ(invisible computer)と見えない支援(invisible support)
使いやすい道具は、利用者がその道具そのものよりも道具の持つ機能に着目できるようになっている。しかし、現在のコンピュータは、コンピュータが自己主張しており、操作法が前面に出て、機能は分かりにくくなっている。これからのコンピュータは、機能すなわちそれによって可能になる人間の知的活動を支援することを前面に出し、コンピュータそのものはノートや文房具などのように身の回りにさりげなく存在するものになるべきである。
見えない支援とは、人間の日常の生活において、支援を受けるために実世界での普通の生活を中断することなく、その時、その場で、状況に応じて必要な支援を受けられるものである。現在、コンピュータによる支援を受けるためには、人間が端末の前に来てサイバースペースの中に入る必要がある。それが逆に計算機が実世界の情報を取り込んで、それに応じた支援を行うのが見えない支援である。必要となる要素技術は人間の振る舞いのセンスや状況認識などがある。
・ 自然なインタフェースと気の利いたインタフェース
自然なインタフェースとは、人間がその道具に対して持っているメンタルモデルに照らし合わせて自然な操作であるものである。たとえば、コンピュータ端末を薄く紙のようにし、ペンで入力するというのは、日常使っている紙と鉛筆のモデルになるため、わかりやすいインタフェースとなる。
気の利いたインタフェースとは、利用者の振る舞いをセンスし、利用者の意図を抽出し、状況に応じて応答を変えたり、次の操作を提案するなどを行うものである。利用者の意図の把握には、過去、その利用者の振る舞いのデータからその人の好みを学習したり、次の操作を予測したりすることが必要となる。このように個人に環境を適合させることをパーソナライズ(個人適応化)と呼んでいる。エージェント技術、学習による利用者の意図の把握、状況認識、予測によるインタラクションの最小化が重要な研究課題として挙げられる。
・ 実世界と情報世界の結合
実世界と情報世界を統合的に扱い、人間の日常を支援する枠組みである。実世界の状況を把握して、適切な場所でタイムリーに情報提示を行うことで、ユーザに高度な情報サービスを提供できる。実世界の状況認識とユーザに関する知識によりコンテクストを共有し、インタラクションを大きく改善。
・ 情報インフラストラクチャ、共通データベース整備
実際に役に立つ情報を提供するためには、情報提供者が別個のデータベースを作成するよりも、複数の情報資源間の相互運用性を考慮して、共通データベース整備が望ましい。また、さまざまな種類のデータが存在するネットワーク上の情報資源の検索、利用のために目的に応じたメタデータ、オントロジーが必要となる。また、情報を利用するためにソフトウェアツールの蓄積とオープン化が情報技術の進展のために必要である。
(b) 共生型生活圏(生活圏の情報化)
国として研究開発を推進していくフラグシップとして、共生型生活圏を挙げる。共生型生活圏とは、ひとりひとりの人間が情報技術の支援を日常生活のなかで目にみえない形で受けながら、地球環境を守りつつ高水準の市民生活を送れるようにするための社会的な基盤である。情報システムは、大型汎用計算機からパーソナルコンピュータ、そして、モバイル、ウェアラブルコンピュータと発展してきた。これまでのパラダイムは、「いつでも、どこでも、誰とでも」に向かって発展してきた。21世紀初頭のパラダイムは、見えない支援であり、「今、ここで、これと、その場限りの」ちょっとした支援である。その実現のためには、あらゆるものにセンサとメモリを付加、生活圏のそこかしこにメモリとセンサ情報を読み出すモニタを配備し、知的情報システム技術によりさまざまな情報サービスを提供することが提案されている。
(4) おわりに
本調査では、日本における研究開発のフラグシップとして、共生型生活圏を挙げた。キーワードは見えない支援であり、研究開発テーマとしてユーザインタフェース、実世界と情報世界の融合、状況認識をはじめとしていろいろなテーマが含まれる。また、情報サービスを提供するために必要な社会基盤としてのデータベースの蓄積も重要である。データベースには、情報サービスを提供するための基盤としての意味合いと、情報システム技術研究開発で取り扱う対象としての意味合いがある。
ユーザインタフェースの評価は、数値だけで単純に表せるものではなく、ある程度の数の利用者に実際に使ってこそはじめて実証できる。ユーザインタフェースの研究開発では、試作機の開発だけで終わらせずに、さらに国の資金でこのような先端的ユーザ端末をまとまった数開発、実験し、次につなげていくことが重要である。
米国がHPCC計画、CIC研究開発計画において、ミッション志向の研究開発を大規模に行い、成功した。さらにその土台の上にIT2が発表され、再び基礎研究に力を入れようとしている。
日本においても応用指向の研究が叫ばれている。応用指向の研究といえば、道具としての色合いが濃くなるが、情報処理技術を単なる道具として捉えるのではなく、より豊かな人間生活のための新しい学問領域として位置づけ、既存の学会、産業、官庁の組織を超えた「計算学」という新しい枠組みを創設していくことが重要である。