わが国IT開発拠点の中国移転に関する調査
日本のソフトウェア産業が、高度なレベルの技術が要求されない開発部分を主体とした業務を低賃金で優秀な技術者を擁する中国へ発注する傾向を強めることがソフトウェア産業の空洞化をもたらすのではないか、との懸念に端を発した本調査はより深刻な日本のソフトウェア産業の課題を浮き彫りにした。
当初の関心事であった中国への事業展開に伴う空洞化については、おそらくそのような事態には進展しないとの見方が支配的である。日本のソフトウェア産業はもっぱら国内市場のみを対象にしているため、外国人技術者あるいは外国企業にとっては日本語、あいまいな仕様書、日本の組織に特有の業務プロセス、日本文化などの日本的業務環境が言わば非関税障壁となり、日本市場への参入が容易ではない。したがって中国への委託が日本のソフトウェア産業の大勢を占めるには至らないであろうことがその根拠である。つまり、日本が危機感を感じている空洞化が現実のものとならないであろうとの観測は日本が国内市場に留まっていることが前提になっている。
グローバル化が進展し、また日本の成長産業のほとんどがグローバルマーケットを対象にしていることを考えると、ソフトウェア産業が国内市場のみに目を向けて自らを半ば鎖国状態に置いていることは、中国展開による空洞化への危惧とは比較にならない深刻な事態である。日本のソフトウェア産業は「前門の虎、後門の狼」とも言うべき状況に直面し、立ち往生を余儀なくされている。次代を切り開く先進的な分野では米国・欧州の後塵を拝し、一方定型的開発の領域では低コスト労働力を背景にした中国などアジア諸国が力を発揮しつつある。欧米が世界市場を対象に製品提供を行い、中国は今まさに勃興しつつある膨大な自国市場への対応に腐心しているのに対し、日本のソフトウェア産業には世界に対して技術・サービスを提供する力と意欲が欠けている。このような閉塞状況を脱して日本も世界に通用する高付加価値型の分野を是非とも切り開かなければならない。
本調査の主題である中国との関連で言えば、中国を低コスト労働力の供給元としてだけ考えるのではなく、やはり市場と認識して将来への布石を意識した展開が必要である。TD-SCDMAの例が示すように、中国一国の市場を中心的な対象にした規格が国際的標準規格として取上げられるほどの勢力は他には考えられず、このことのみを以ってしても潜在的な市場としての中国の勢いは推して知るべしである。また全世界に広がる華人ネットワークが持つ力もきわめて特異なものであり、早晩中国が世界の市場に成長することは確実である。もちろん、これは全中国が同時期に等しく市場化することを意味しない。その点では中国を一つと考えるのは不適切であり、ケースバイケースの対応が求められる。
日本のソフトウェア企業が中国に展開するパターンとしては、たとえば沿海部の富裕層を対象にした先進的なITサービスの事業化を計画し、そのために日本の技術力に関心を寄せている中国企業と連携して日本が有する進んだ技術を生かす方策があり得る。あるいは中国人技術者には真似のできないキメ細かなもの作り力を生かしてWTOを契機に経営の高度化を進める中国企業へ展開する道もあるかも知れない。こうした例に比べるとやや卑近で発展性に欠けるきらいがあるがリスクが低いものとして、中国へ進出したあらゆる業種の日本企業の情報化に関するニーズを、同じく中国に展開した日本のソフトウェア企業が引き受けるような形態のサービスもあり得る。
中国を市場と考えた事業展開には様々なリスクが伴う。しかし日本にいる我々が忘れがちなのは、日本に進出している中国企業、あるいは日本の業務を下請的に実施している中国企業も彼らなりに大きなリスクを感じ、それを克服して事業展開をしている点である。今回の調査でも、「日本相手のビジネスはリスクが大きく、あえて踏み出す決定ができない」との感想を漏らす中国の有力IT企業があった。文化・商習慣の相違に起因する起業へのためらいは片務的なものではなく相互が共に抱える問題である。つまるところ、リスクを取らざるを得ないと考える危機感、リスクを乗り越える戦略構想力、それらを支える起業家精神の有無が問題である。今の日本のソフトウェア産業界には総じてこれらが不足しているが、あながちその力が無い訳ではなく、奮起が切に期待される。
中国の経済成長は2008年の北京オリンピックが一つのマイルストーンになる。それまではほぼ現在の趨勢で成長が続くと考える識者が多いが、オリンピック後も同様の高い経済成長が持続できるかは疑問である。中国への事業展開には時間的にも地理空間的にも大きな変動要因が見え、中国から「日本は中国以上に社会主義的だ」と評されるほどに、ある意味で変化が少ない環境に慣れた日本企業にとっては第一歩を踏み出すことを躊躇させるに十分な雰囲気がある。しかしこの問題を避けて日本が安定的成長を続けることはおそらくできない。