シンガポール国立大学滞在記

2001年1月

S16 Building シンガポール国立大学(Natinal Univ. of Singapore, NUS)は,asiaweek.com が毎年発表するAsia's Best Universitiesランキングでも最上位5校の中に入る,シンガポール随一の総合大学である.シンガポールの新宿とも言える Orchard(実際,伊勢丹,高島屋,紀伊国屋書店などがあって日本円で買い物ができる)からは西の方角に位置し,タクシーで20分,400円ほどの距離である(当地のタクシーは安いので気軽に利用できる.しかしとても人気があるのでつかまえるのが大変である).Kent Ridgeという地名が示唆するように丘陵に面して建てられており,変化に富んだ美しいキャンパスである.

著者は2000年9月からの1学期間,大学の特別研究期間制度を利用して,NUSのSchool of Computing(SoC), Dept. of Computer Scienceに滞在している.SoC(写真1,3)は,1998年7月(こちらのacademic yearは7月に始まる)に発足した新しい学部で,Computer ScienceとInformation Systemsの二つの学科からなる.Information Systemsが,computational financeやelectronic commerceなどをカバーする,文系的側面も備えた比較的小規模な学科であるのに対し,Computer Scienceは,PhDをもつfaculty memberが約80名,助手以上の全教員を数えれば優に100名を上回る大変大きな学科で,発足当時からJoxan Jaffar(写真2)が学科長をつとめている.著者の友人でもあるJaffarは論理プログラミングおよび制約プログラミングで著名な研究者であるが,職位や給与などの諸制度の変革,スタッフの給与査定,優秀な研究者のリクルーティングなど,学科長としての多くの仕事をこなしつつも,「研究時間はちゃんと確保できているよ」と述べていた. Joxan Jaffar

Computer Science学科は計算機科学のあらゆる分野を網羅しているが,人工知能関係では計算量的学習理論,データマイニング,ロボティクスとビジョン,制約(充足およびプログラミング)などの分野の層が厚い.学習理論のSanjayJainやPhilip Longは学部および学科でも要職をつとめている.そのスタッフの中から,MIT AI Lab. 出身のコンピュータビジョンの気鋭若手研究者SungKah Kayを11月のシンガポール航空機事故で失ったのは,大きな痛手であった.一方,制約プログラミングのRoland Yapは当地開催のCP2000(ConstraintProgramming)国際会議議長の大役を果たしたあと結婚式を挙げ,著者もシンガポール式の結婚式と披露宴に初めて列席した.始まりとお開きが重要な日本の披露宴と大きく異なり,当地の披露宴は流れ集合流れ解散で,新郎新婦は各テーブルをまわって歓談するというなごやかな宴であった.

シンガポールのITにかける情熱は並々ならぬもので,SoCの発足もその国策が背景にあると考えてよい.毎年の新入生は現段階では700〜800名規模だが,近いうちに1000人規模になるとJaffarは話していた.学部教育は英国式(3年)と米国式(4年)との両方のコースが用意されている.これまでの主流は英国式の3年教育であり,その中で特に優れた学生が4年目に進んでHonuors degreeを取得し,さらにその一部が修士課程に進学する.しかし,IEEEやACMのカリキュラムに沿った卒業生を輩出するためには,最初から4年のプログラムで教育することが望ましく,4年制に重心を移してゆくことが課題だそうである.

もう一つの課題は大学院進学率の向上である.研究スタッフは大変充実しているが,そのほとんどは海外で学位を取得したシンガポール人または外国人である.NUSの大学院に進学してより高度な専門知識の習得を志す人の増加を教授陣は渇望している.しかしそのためには,大学院修了者を優遇するように社会環境が変わってゆくことも必要である.

Dept Office 学生は優秀かつ熱心で,試験前になると通学のバスの中でも講義資料に目を通している学生が多い.漫画を読んでいる学生には出会ったことがない.ノートPCを持参する学生は多く,学生ラウンジやホールの電源コンセントの近くには必ずといっていいほどノートPCに向かう学生がいる.ただし,テーブルに4台のノートPCが並んでいたら対戦ゲームを楽しんでいるところかもしれない.

大学院進学率が高くなった日本と異なり,当地では研究者を目指す少数の学生のみが大学院に進学する.彼らはみな熱心で優秀である.著者は,プログラミング言語グループのゼミに参加しているが,教員一人あたりの学生数が少ないこともあって,大変指導が行き届いていると感じた.学部教育についても同様のことが言え,3年次までの講義科目には必ず演習のコマが付属している.しかも演習1クラスの定員は15名に制限されている.受講者の多い低学年の科目では数十の演習クラスが設置されることもある.米国で学んだスタッフが多いためか,講義のWebページはどれも大変充実しており,成績算定基準に至るまで細かく書かれている.教育にかけるこのような情熱は,アジアのトップクラスの留学生を迎えたいという願いを反映したものでもある.

Science Canteen シンガポールはいろいろな意味で外国人にも暮らしやすい場所である.まず第一に,英語が通じる.ただし,中国式の抑揚に乗った当地の英語を聞き取るには慣れが必要である.次に,食に関するバラエティが,種類的にも価格的にも非常に広い.学食(canteenz,写真4)にはさまざまなfood stallが出店していて,200円たらずで中華経済飯(好きな惣菜を何種類か選んでご飯にのせてもらう)ほかマレー料理やインド料理など,いろいろなものが食べられるし,他学部まで足を伸ばせば日本食もある.また気候も,たしかに高温多湿ではあるが,東京の真夏に比べるとましなくらいである.実際,著者が借りたコンドミニアムは,居間に空調がなくて最初は驚いたのだが,風通しが良いので,ビルやバスの冷房で冷えた体にはむしろ快適である.学生寮の部屋にも天井扇風機はあるが空調はない.また,蚊の発生を防ぐことに国をあげて熱心であるため,窓を開けて寝ていても蚊に刺されることは少ない."Singapore is a fine city" と揶揄されるほど細かなルールの多い国だが,街なかの警官の数は,ニューヨーク市と比べたら,いないも同然である.11月も末になると,クリスマスの電飾が華やかである.

海外とのネットワーク接続環境は大変良い.特にNUSと早稲田大学との間のパケットはAPAN経由で流れるため,pingで測定した往復時間は100msたらずである.在外研究に赴く場合,不慣れな人にとっては日本語環境の立上げが悩みの種となるが,シンガポールに来てみて,ここでは何も悩む必要がないことがわかった.何しろ早稲田の研究室の計算機にリモートログインしてEmacsとWnn6で日本語の文章を書いても,まったくストレスを感じないのである.

Distance Seminar 1 在外研究に赴くときのもう一つの心配事は,担当学生の指導をどうするかであるが,シンガポールは日本との時差が1時間しかない.これならばメールを使ってリアルタイムに連絡ができる.また,これだけネットワーク環境に恵まれているのだから,IP接続のビデオ会議をやってみようと思い,出たばかりのH.323対応小型ビデオ会議システム(Polycom ViaVideo)を現地で調達して,日本のゼミ室に置いたシステム(PictureTel LiveLAN)との通信を試みた(写真5,撮影:佐藤雅彦京大教授).異機種間通信のため音声に不具合があったが,音声だけならばPC対PCのIPtelephonyのフリーソフトがあるに違いないと思ってbuddyPhoneを探し出し,何とか画像と音声を双方向通すことができた.学部3年生の講究授業の一部や卒論修論の中間発表(写真6)も,このようにビデオ会議システムを通してインタラクティブに行うことができた.一つ問題だったのは,IPによる通信は品質の保証がないことである.実際,中間発表の前の週から某所のルーティングテーブルがおかしくなり,リモートログインに支障をきたすほどのパケット往復時間を要していた.しかしそれでも,ビデオ会議の画像と音声が,まがりなりにも使える程度に流れたのは驚きであった.中間発表の進行と並行して,学科同僚の後藤滋樹教授ほかの方々が原因究明に動いて下さり,最後には写真のように,ゼミ室のプロジェクタの字が読めるほどきれいなビデオ画像が通るようになった. Distance Seminar 2

片手に乗るようなUSB接続の装置でビデオ会議ができるようになったことはいろいろな意味をもつ.さまざまなコラボレーションが促進されるのは当然で,すでにNUSとMITの間では遠隔授業が始まっている.また大学研究者の立場からは,遠隔授業や遠隔ゼミが可能になったことで,海外出張や在外研究にもっと自由に出かけられるようになろう.ビデオ会議がいくら普及しても,研究者にとっては,物理的に人と会って人間関係を築くことが決定的に重要である.その一方,海外に出かけても教育や大学諸雑事,あるいは国際会議のプログラム委員会の切盛りなどに時間を使わなければならないとしたら,何のための在外研究だろうかという疑問も頭をかすめ始めた.研究時間を確保するためには,適度な不義理が必要かもしれない.あるいは,日本との時差の大きな国へ赴けば,少しは事情が異なってくるであろうか.


(人工知能学会誌,Vol.16, No.1 (2001年1月), pp.169-170 所収 記事に写真を追加)