人工知能とソフトウェア文化

上田 和紀 (早稲田大学理工学部情報学科)

人工知能は新たな情報技術のインキュベータだという説がある.

この分野には昔から,計算機に面白いことをさせたい,計算機を使って面白いことがしたい,という夢多き輩が結集していた.そして新たなコンセプトやツールを生みだしては,技術や文化として確立したものをのれん分けしてきた.私が人工知能の授業で最初に紹介する David Waltz の名文 "Artificial Intelligence: Realizing the Ultimate Promises of Computing" (http://www.cs.washington.edu/homes/lazowska/cra/ai.html) にも,数式処理からマウスやGUIのようなポピュラーな技術にいたるまで,人工知能研究者の周辺から出た多くのスピンオフ技術が並んでいる.

本家の人工知能は,「わけがわかってしまった技術はもはや人工知能でない」と,補集合によって定義されることもあるほどだが,見方を変えれば,計算および計算機の可能性をきわめるべく,質的に困難な問題を見つけて立ち向かうことがその最大の任務であろう.広く情報技術一般に対する夢と現実とのギャップに根源的な疑問を抱く人が結集して,自由な発想で理想のパラダイムを追求する場であってほしいと思う.

私にとっての,情報技術への長年の疑問(と研究の動機)は,技術の複雑化の勢いが高度化の勢いを圧倒しつづけている事態にどう立ち向かうかであった.学問分野は細分化し,書店ではハウツーものが学術書を片隅に追いやり,ソフトウェアはどんどん大きく重くなってきた.いずれも「経済原則」の帰結であるとは言え,文化的観点からは腑に落ちない.Microsoft Officeのあのイルカは人工知能技術が役に立つ例としてよく引き合いに出されるが,イルカに助けてもらわないでも使えるようにシステムを設計するのが本筋ではないだろうか?

複雑化をコントロールすることができない私たちは,一方で先端技術の恩恵を享受しつつも他方で「見えない弊害」に直面しているように思える.それは,技術の肥大化によって,ものごとの本質を見極める作業に宝探しのような労力がかかるようになり,本当に大切な問題への取組みが遅れてしまうという弊害である.初学者にとってもプロの技術者にとっても,情報分野の本当の面白さや深さを体得することはなかなか容易でない.

このような中で,いま,ぜひ育っていってほしいのは,情報分野を広く見渡せる人材であり,雑多な概念を整理してわかりやすく提示することのできる人材である.我田引水かもしれないが,そのような能力を身につけるには,さまざまな分野に適用できる良い表現手段 − 数学,記法,プログラム言語など − を手にして,思考と表現の道具として使いこなすことが重要であるように思える.

盛会であった今年の全国大会の夜の席で,「そういえばAI言語ってコトバ,ありましたねぇ」という話が出た.AI言語すなわち記号処理言語もまた,人工知能からのれん分けした重要技術であるが,大会でも,LispやPrologの利用に言及した研究発表は大変少なかったようだ.しかし,非記号的なAIは別として,記号的AIに取り組むのに手続き型言語を使うのは,たとえて言えば,日本文化の機微を外国語で語るようなものではないだろうか? 大ブームとなったXMLも,その深い可能性を観察して活かすには,LispやS式の威力を経験したか,宣言型プログラミングに親しんだかどうかが鍵になるのではないかと思う.

表現を重視して筋を通そうという動きは,最近の海外の人工知能の代表的教科書を見ても顕著である.特に,記号論理の重視は,論理プログラミングに長年たずさわった私が見ても驚くほどである.言語や表現はときに宗教戦争の種ともなるが,避けていては文化が育たない.

1ギガヘルツを超えるプロセッサとギガバイト単位の主記憶を備えた計算機が個人でも容易に持てるようになり,持ち主の発想の豊かさが試される時代になった.良い表現,良い言語,良い計算機構を,絵に描いた餅にせずに実際に役立てることができる条件がそろってきた.これをバネとして,論文だけでなく,「これはすごい!」という知的ソフトウェア作品を日本から出してゆきたい.そして人工知能学会は,計算機のもっとも先端的な活かし方を開拓するための,科学者,技術者,そして「職人」のフォーラムであってほしい.大会に持ち寄ったソフトウェアやロボットを互いに披露しながら「旦那,いい仕事してますね」なんて会話ができると楽しい.


(人工知能学会誌 2001年11月号(Vol.16, No.6)巻頭言)