本プロジェクトが実施された時代背景


 
日本株式会社モデルに基づく最後のプロジェクト、そして、日本が世界をリードしたプロジェクトの最初で最後のプロジェクト

 1965年頃から、通産省(現経済産業省)は、工業立国の国策に対応し、米欧のコンピュータ技術に追いつけ追い越せと、補助金制度や大型工業技術開発制度(大プロ)を作り、国産メーカーの技術力向上に力を注いだ。 国産メーカーは、このような資金をもとに研究組合を作るなど、一丸となって米欧メーカーを追いかけた。

 コンピュータ以外の分野では、米欧の基礎研究成果の中から、商品になりそうな技術をコピーし、高品質・低価格の製造技術を武器に、市場進出を図った。 国がメーカーをまとめて支援し、米欧の基礎研究成果を取り入れキャッチアップするこのモデルは、「日本株式会社モデル」などとも呼ばれ、大きな成功を収めた。

  1970年代なると、わが国のコピーキャット戦略が功を奏し、テレビなどの家電、DRAMなどの半導体、その他領域は異なるが自動車など、多くの電子技術やコンピュータ分野で、日本製品は米国市場において、米国メーカーを凌駕するようになった。 特に半導体は、いわゆる半導体摩擦を起こした。このため、日本は先端コンピュータ分野や基礎研究分野で貢献せず、コピーするばかりだといった非難の声が高まった。この後、米国はアイデアを特許や著作権で保護する仕組みを強化するプロパテント政策を取り始めた。

 このような環境の中で、通産省は、日本も独創的な研究開発ができ、世界に貢献できることを示す必要にせまられた。メーカー、研究所、大学などから専門家が集められ、東大の故元岡達教授を委員長とする「元岡委員会」が作られ、どのようなコンピュータの研究開発を行うかが議論された。 通産省の中野正孝氏が、「第五世代コンピュータ」という魅力的な名前をつけた。第五世代コンピュータをどのようなコンピュータにするか、約2年間に渡り議論がなされ、結局、電総研(現産総研の情報部門)の渕一博のグループの提案した人工知能(AI)を主な応用とし、1,000台のプロセッサからなる大規模並列ハードウェアを有する、夢のようなコンピュータに挑戦することが決定された。

 そのハードウェアは、従来のコンピュータと異なり、推論言語を実行する並列推論コンピュータとされた。まさに世界の誰も考えたことのない、非ノイマン型のユニークなコンピュータであった。 しかし、土台となる並列推論言語や計算方式、1,000台ものプロセッサの結合の仕方、並列OS, いろいろなAIの応用システム、いずれをとっても、どのようにすればできるのか、ほとんどの研究がゼロからの出発であった。

 しかし、その構想は、日本よりは世界の新しいコンピュータを目指す若い研究者に強くアピールし、英国やスエーデンなどから自分のアイデアを ひっさげて、多くの研究者がICOTへ集まってくるという、予想外の状況が生じた。 ICOTへ集められたメーカーの若手研究者は、能力はあったが、AIも、推論も、並列処理も、その研究経験のあるものは少なかった。海外より駆けつけた研究者と議論し、彼らの知識や経験を参考にしながら、第五世代コンピュータを作りあげるための知識を蓄積していった。

 この夢のような第五世代コンピュータは、当時の日本の物作りに対する高い評価、それにその構想の整合性が評価されるにしたがって、米、英、瑞、仏、などの諸国も、対抗するプロジェクトを自国に立ち上げた。米国は、第五世代コンピュータは日本の力ではできあがらないだろうが、そこに含まれるAIや超並列コンピュータの研究は、それぞれ重要な技術を生み出すであろうと評価した。 DARPAは、日本以上の予算規模のAI中心の研究開発プロジェクトを立ち上げた。

 通産省は、当初からその成果は公開すると宣言した。わが国の制度では、税金を使ったプロジェクトの成果は国に属し、公開は有償というルールが標準であった。このため、この宣言はきわめて異例のものであった。 しかし、この宣言の故に、世界中の研究者との個人的研究協力、及び国と国との共同研究など、いろいろなオープンな交流が生まれた。

 11年+延長期間2年の間に、ICOTに出向した約200人の研究者・技術者、ICOTと大学との連携のために作られたWorking Groupに参加した約200人の大学・企業の研究者・技術者は、ICOTへ自費や招聘費用で来た海外研究者と直接接触したり、自分から海外へ出かけたりして、多くの共同研究も生まれた。

 その後フランスの国立研究所INRIAの副所長になったDr.E.Gallireは、このプロジェクト以前は、日本との接触はその製品を介してのみであったが、このプロジェクトで、初めて直接日本人研究者の顔が見えるようになったと発言した。日本人研究者は、このプロジェクトで初めて世界のコンピュータ研究者の仲間入りができた。 彼は、このプロジェクトは世界に貢献していると発言し、オープンな基礎研究の意義を我々に教えてくれた。

 中期から毎年、日米WSを開催する米国側予算を確保し、交流を支援したNSFのY.T.Chienは、オープンな基礎研究はGive and Takeの場を持つ研究交流が不可欠であり、日本は今後そのようなプロジェクトを増やすべきであり、オープンなプロジェクトをホストすることは、世界の基礎研究への大きな貢献だと発言した。

 以上のように、第五世代コンピュータプロジェクトは、国がリードし、産業界がこれに対応し、一丸となって実施された。このモデルは、かつてわが国技術を世界レベルに引き上げた日本株式会社型モデルのプロジェクトであった。

 このプロジェクトは、結局、13年間続き、世界をリードし、わが国のみならず、米欧を含め多くの国の研究者を育て、コンピュータの基礎研究に貢献するという当初の目的を果たした。 ICOT出向者やメーカーにおいて、このプロジェクトに参加した研究者の中から、約80名が大学へ移るなど多くの人材を輩出するなどの成果はあったものの、その直接的成果物は、時代に先行し過ぎており、すぐに製品化できるものは少なかった。 その間に、市場では、メインフレームの時代が終わり、それに代わり、高性能のワークステーションやパソコンを高速ネットワークで結合したネットワークコンピューティングの時代へと移り変わっていった。

 わが国のメーカーのコンピュータ部門は、メインフレームの時代がまだ10年は続くと予測したが、時代の変遷は早く、わが国は、インターネットやパソコンの普及について後手に回ってしまった。 特に、UNIXを始めとする分散ソフトウェア技術の改革に乗り遅れたことは、その後のわが国のコンピュータ産業にとって致命的ともいえるものであった。

 以後、各メーカーの目指す方向がそろうことはなくなり、日本株式会社モデルによるプロジェクトは行われなくなった。第五世代コンピュータプロジェクトはその最後のものとなった。 これ以降、米国はプロパテント政策を強化し、特許やソフトウェアの著作権をめぐる戦いの時代に入って行く。インターネットの時代に入り、この競争は激化しグローバルコンペティションの時代が到来し、第五世代コンピュータプロジェクトで行われたような鷹揚な共同研究が行える機会はほとんどなくなってしまったように見える。

(文: 内田俊一: 2005.12.01)


戻る