中間点にさしかかった第五世代コンピュータ・プロジェクト

原理原則に固執し妥協を許さない信念

ICOT・研究所所長 / 渕 一博



1987年6月の第5回「第五世代コンピュータに関するシンポジウム」は、 このプロジェクトが始まって折り返し点に当る5年目の1つの節目であった。 ナショナル・プロジェクトとしての研究目標の設定と、その途中の成果が妥当 なものであるかが問われるものであった。夢を語っていればおもしろがられ、 現実的な立場に立つと商業的に支持されるが目標が遠のく。その中間を語ると 双方から嫌われる。渕所長が語っているように、長期プロジェクトの苦悩が滲 み出ている。しかし、信念をもって目標に突き進む固い決意が語られている。

第五世代プロジェクトの折り返し

 第五世代コンピュータプロジェクトがスタートして5年経ちましたが、10年計画というスパンの中では折り返し地点ということで、マラソンでいえば飲み物を受け取って、あと帰りの道を走るぞという時期だろうと思います。この5年間おかげさまで、なんとかやってこられたなという感慨ですが、この10年計画の全体がどうなるかというのを5年だけで計るのは問題かもしれません。百里の道は、という諺がありますが、そういうことからすると、5年というのはまだまだ始まりということかもしれません。

 この5年、当初に立てた大きな枠組み、5年くらいの期間でこの程度のことをやろうということはまあまあやれたのではないかと思います。採点は皆さんにやっていただくわけで、自分でしてはいけないんでしょうが、合格点はいただけるのではないか。合格60点という基準で、主観的には80点くらいはいったかなというような気がしています。

 どういう感じで言っているかといいますと、いろいろプロジェクトがある、ナショナル・プロジェクトというものも過去にたくさんあります。私が全部知っているというのでもなく、詳しく知っているものも多くはないんですが、しかしそういういくつかのプロジェクトの採点を私が勝手にした、そういう基準を当てはめてみてそんなもんかなと思っているわけです。

 この5年間やってこられたということは、別に私の努力というものではありません。むしろこのプロジェクトの実際を担ってきた研究者の人たち、それを支援したいろいろな技術者のグループ、あるいはそういう環境を作るために、いろいろ支援をしていただいたマネジメントクラスの人たちという、多数の人の力によって、これまでやってこられたと思っております。そんなことで甘いと思われるかもしれませんが、そんな自己採点で5年間を振り返っているわけです。

プロジェクトの目標設定に誤りはないか

 たまたま数か月前のことです。昔はMITで教授をしていたとか、閣僚クラスの経歴を持っていて現在はソフトウェアの会社の社長をしているイギリスの方がやって来られて、どうなんだと聞かれて、だいたいうまくいっていると答えました。その人曰く、「自分の30年のキャリアでいろいろなプロジェクトを見ているけれども、厳しくいうと、だいたい皆うまくいっていない、うまくいったためしがない。それなのにお前のところだけうまくいくというのはどういうことであるか」と、冗談を含めて言われました。そこで私も少し気取って答えたわけです。「私も25年近くコンピュータの世界を見ているし、プロジェクト、特にナショナル・プロジェクトは、そばにいたり、少し離れていたのを合わせると、十くらい知っている。お説のように、極端にいうと、だいたいうまくいかないケースが多い。したがってそういうものをいろいろ分析した上で、うまくいくように仕組んでおいたから、これまでのところうまくいったんだ」と。

 そういうことがきっかけでプロジェクトといいますか、ナショナル・プロジェクトを見直しますと、特に規模の大きいナショナル・プロジェクトは非常に難しいものがあると思います。大きくなりますと、いろいろなファクターが混ざってきて難しくなる。一つには内容といいますか、目標設定の面、もう一つはプロジェクトを実施するときの条件といいますか環境という両面があると思います。

 プロジェクトの目標という観点からいくつか内外のプロジェクトを考えてみますと、だいたいにおいて、結果論で言いますと、目標設定に問題があったということが多い。

 第一は目標設定が低すぎる場合です。目標が低いというのはやりやすいと思われるかもしれませんが、意外とそうでもない。もちろん目標が低いといっても、すでにできているものを目標にするわけではなくて、若干の将来を見通してやるわけですが、近未来であるとかのあまり遠くではないものを目指す場合です。だいたいにおいて常識的な目標になる。したがって、スタート時点では、皆賛成するわけです。手ごろに難しい、手ごろに未来的であるということで、多くの人が賛成しやすい。

 ところが、そういうプロジェクトは、実際に時間が経っていきますと問題が出てくる。どういうところで出てくるかというと、若干難しいけれどやれそうだという感覚がほぼ皆さんの中で定着しているものというのは、実は現実においては、そのプロジェクトと必ずしもかかわりなく、かなり独立的に進行してしまう。

 特に日本なんかそうですが、日本の企業の技術陣は、やりだすとやたら力を発揮するわけで、やや野心的かと思って設定した目標などは、たちまち現実レベルといいますか、製品レベルで追い越してしまうということがあります。これは、ある意味ではめでたしめでたしですが、ナショナル・プロジェクトそのものということからすると、現実から取り残されてしまう、しかしながら、後始末をしなければならないということが起こり得る。抽象的にいうとわかりにくいかと思いますが、実は具体的にもそういうパターンというのはいくつもあったわけです。

 2番目の場合として、逆に目標が高すぎるということも当然あるわけです。目標が高いからうまくいかないだろうということで皆さんの賛成が得にくいと思われるかもしれませんが、実は、夢のようなことをいうのも賛成を得やすいパターンなのです。コンピュータがらみのプロジェクトは世界中でいえば30年来いろいろあったと思いますが、そういう時にこういうことができたらいいなということを言うのはもちろんやさしい。こういうことができたらいいだろうと言うと、それは確かにいいですな、と賛成される。

 しかも、情報処理は、AI的なことを名乗る、名乗らないにかかわらず、わりとすぐ実現できそうに思われている。われわれ人間自身がお手本なので、進んだ技術を使えば実現できるんじゃないかと、わりと安直に、願望が達成されるんじゃないかというふうに思う傾向があります。

 人工知能の歴史の中にもそういう繰り返しがありますし、人工知能といわなくてもあります。できたらいいなということでスタートする。しかし、実際には技術的に難しくてプロジェクトとしては失敗するということを繰り返していたという前例があるわけです。

第五世代の目標は高からず低からず

 それでは、第五世代プロジェクトの場合はどのへんか。目標が低すぎたか。

 いま人工知能のブームが起こっていますが、世の中は進んでしまった、そういうことをやろうとしていたに違いない第五世代プロジェクトは、したがって成功裏に終ってしまったんだと言ってくださる方もいます。しかし、現在のコンピュータの上でのAIアプリケーションそのものというのは、この第五世代プロジェクトにとっては、当初から言っていたことですが、目標ではなく、一つのエピソードにすぎません。本来狙っていることというのはその先にあるわけです。

 それでは目標が高すぎるのか。高すぎる目標を掲げていると一般的には思われているに違いないと私は思っておりますが、どうでしょうか。しかしながら、それにはひどい誤解もあります。わわれのプロジェクトが人工知能の最終的な解答を出すことを狙っているに違いないという誤解です。そういうことが10年でできるはずがない、ということをこの5年間いろいろな場面で言われてきました。もともとそんなことは考えていません。少し研究の流れ、技術の流れを知っていれば、そういうことを考えるはずがない。そのへんはジャーナリスティックな誤解です。しかし、まだ実現されていない課題がいっぱいありますので、目標は十分高いということはいえると思います。しかし、高すぎることはないというのは私たちが当初から考えていることです。

 目標は高からず低からずというとうまい話のようですが、私の感じでは、それがなぜかいちばん評判が悪そうである。夢のようなことを言いますと、あいつの話は面白いというのでファンが出てくる。非常に現実的な話をすると、これは儲かりそうだというので支持者が出てくる。途中のあたりに目標を設定するというのは意外や両方から嫌われる。あれは夢がないと片方から言われる。片方ではできるはずがないと言われる。その狭間にいるわけです。この5年間いろいろ反応を見聞きして逆に考えますと、ほぼいいところにわれわれの目標はあるのかなという気がしております。

必然的な次のステップへの準備

 この第五世代プロジェクト自体の狙いはどういうところにあるかというと、現在の技術の単なる延長ではない、しかしながら、大きな歴史の流れで見れば、必然的に来ると思われる次のステップに対して準備をしていこうということにあります。こういう設定はいつでも成り立つわけではなくて、ある技術分野でいえば、あるうまいタイミングでしかそういう時期はないはずです。たまたまコンピュータの分野ではそういう変わり目というものが1990年代という年代に来るのではないかという観測です。

 そういうことですから、特定な人工知能というより、むしろ高度化された情報処理技術とは何かということを追及したいというのが根っこにあります。しかし、情報処理の高度化というものを内容的にどう捉えるか。ただ大きなソフトを書けば、ソフトウェアが高度化したというのではなく、そこには作り方の変化とか、新しい知見が盛り込まれていくということで高度化していく。

 そういう流れの中で、人工知能の問題のすべてではありませんが、人工知能の問題を関連づけてとらえることができるというのが、そもそもわれわれが人工知能を見ていた立場でもあります。例えば、その中のテクニックの一つとしてのルールベースという話がありますが、ルールベースのほうにだんだん向いていくというソフトウェア作りの流れは、大きな流れとしてあると思います。ルールをはずせば高度のものができるかというとそうではなくて、アルゴリズムもまた私はルールの一種だと思っていますので、そう狭い意味でとらえなくていいので、大勢はルールベースのほうに進んでいく。そのほか人工知能でいっているいろいろなテクニックが取り込まれていくというのが、内容的にいって情報処理技術の高度化というものに対応してくる。もちろん、それだけではなくて、ほかの技術の支えというものもあって、全体的に高度化されていかなければいけないんですが、特に中心となるところでは、人工知能の分野で追及されてきたこと、あるいは追及しようとしていることが大きなヒントになる。本来はねらいは一つで、歴史的にいうと、違ったグループが推進してきたというだけであって、これからはあのグループ、このグループというのではなくて、情報処理高度化のグループとして一体化していくのだという観測があるわけです。

ロジック・プログラミングをべースに

 それをさらにいろいろ分析していきまして、われわれが立てている大きな仮説は、論理(ロジック)プログラミングというものをべースにした、新しいコンピュータのハードとソフトの技術の可能性があるということです。

 ロジック・プログラミングをべースにしてハード、ソフトを見直す。もちろん外回りのLSI技術とかその他も勘案して、新しい技術の枠組みができるであろう。これは、もちろん、仮説なわけです。誰が証明したわけでもなく、毎度言っているように、この仮説を証明しようというのがこのプロジェクトである、と言ってもいい。仮説であるというと、自信がないように思われがちですが、プロジェクトにかかわっている者たちの気持ちでいうと、それは確信と言っていいと思います。

 この、仮説であるということと、確信を持つということは別に矛盾するものではないと思います。

 それは冷静に物事を見るということと、情熱をもって物事に取り組むということは矛盾するかというと、本当は矛盾するものでもなんでもない。その両立を図ることが難しいということが多いわけですが、別に本質的に矛盾することではないのと同じことだと思います。

 ロジック・プログラミングというべースでやっていこうということに関しては、当初からわれわれはちっとも変わっていないつもりです。そういう線の上でのいろいろな発展があった、いろいろな成果があったと思っています。たまたま米国の場合は、非常に神学的にというか、宗教的に反応する人がいるわけです。彼らに言わせると、ロジック・プログラミングの採用も宗教だというわけです。宗教的な人がどっちが宗教だといっても勝手だと思いますが、私たちには宗教的な発想はない。そういうことではなくやってきている。それが一つの骨組みとしてあるわけです。

「論理」をどう捉えるか

 その論点の一つとして論理というものをどう見るかということがあります。私は、論理というものをあまり広く捉え過ぎても意味がないし、狭く捉え過ぎても意味がないと思います。狭く捉える人の中には、数理論理学の教科書にある一階述語論理を論理だと思っている人が立派な学者にもいらっしゃって、驚くことがあります。それも論理体系の一つですが、いろいろ論理体系がある。しかし、それらの論理体系も互いに無縁な別々のものではなく、ここにはまた共通した何かがあるのだろうというふうに私は思っています。共通した存在をいろいろな角度から切り出して、論理体系を立てているのだと思っていますが、これは若干思い込みみたいなものかもしれません。

 関数的プログラミングと論理的プログラミングとの対立とか、対象指向型の言語がいいのか、論理型言語がいいのかという論争は本来対決するような対立ではないというのは、いろいろな場面で申し上げています。それらは、実は、私が信じる同じ論理を違ったところから見たもの、あるいは切り出したものではないかと思っています。

 例えば、われわれのところで使っているESPという言語にはオブジェクト指向的な表現が取り入れられていますが、これはロジック・プログラミングの一つの拡張としてちっとも不自然ではない。

 論理、特に狭い意味での論理としての述語処理系がなぜ出てきたか。例えばオブジェクト指向と述語論理的なものの関係を論理学の歴史の中で見ることも大事ではないかと思います。というのは、論理学とか哲学の長い歴史の中で、世の中を統一的に理解しようという努力があって、その中でリレーション(関係)というものが抽出されてきた。リレーションというものを抽出することによって、述語論理は成り立ってきたわけですが、それはなぜか。それは、その裏にある推論の規則が何であるか、あるいはそれをどう単純化して捉えるかということと深くかかわっていると思います。

 典型的な述語論理の推論規則はきわめて簡単です。もちろん含まれている内容は豊富ですが、表面上はすごく簡単です。オブジェクトという見方で推論規則を立てるとそんなに簡単にはいかないと思います。人間というのは、もともと言葉というものと関係があって、「もの」(オブジェクト)を中心に見ようとする性癖がある。それで本当に世界が捉えられるのだろうかということで、だんだんその裏に潜む「関係」を抽出してきたという歴史があるのです。

 しかしながら、人間が普段物事を表現するのには、逆に、深層構造であるかもしれない関係表現よりは、よりオブジェクト・オリエントの表現のほうに、心理的必然があると言えなくはないわけで、そういう意味で、プログラミングの一つのスタイル、あるいは一つの知識表現形式としてオブジェクト指向が今追及されているのは不思議ではありませんし、大いに追及すべきことだと思っています。しかし、それが全然別の方向への発散ではなくて、本来同じものをいくつかの側面から攻めていると見るのがいいのではないかと私は思っています。

 このプロジェクトの研究計画を支えている基本的なフィロソフィというか枠組みはこの5年間変えずにやってこられて、その上でいくつかの成果もあったと思います。

 原則を踏まえた上での発展を図れた、5年間でいろいろ成果が出せたのではないかということは、かなり自信と誇りを持っているといってもよかろうかと思います。

原理原則に固執

 一方、世の中もこの5年間にだんだん変わってきまして、5年前になかった一つの現象としてこのAIビジネスがあるわけで、それとの切り分けについては去年お話ししましたのでICOTジャーナルで見ていただければ幸いですが(ICOT ジャーナル No.12)、そういう動き、あるいはほかのプロジェクトとの関連もこの5年間にいろいろ整理されてきて、第五世代プロジェクトとの位置付けが明らかになってきたというか、安定してきたのではないかとも思います。

 現在進めているこのプロジェクトの成果自体は、究極的には、10年計画を成功させて、それから世の中に根付いていくということです。それと同時に、プロジェクトの副産物の広がり、あるいは独立した動きも進行していくのではないかと思います。

 例えば、前期から中期の初めにかけて進めてきた逐次型推論マシンというワークステーションは、実は、目的ではなくて、われわれが研究に使うという手段であったわけですが、手段がある程度できますと、一人歩きをするという時代にもなってきています。そういう副産物も一つの成果といってもいいのかもしれません。しかし、AI用のワークステーションということで考えますと、それは唯一の動きではなくて、世の中全体としますとAIワークステーションのいろいろなタイプのものも出てきます。われわれが目標としています並列推論マシンが急に出てくるはずはないと思いますが、逐次型というテクノロジーを使ったAIワークステーションはすでにあります。Lispマシンを含めて、拡張型のPrologマシンなどいろいろ出てくるのではないかと思っています。しかし、このプロジェクトの立場としては、それらは副産物ないし関連した過渡的な現象で一つのエピソードだと思っているわけです。

 あと5年あるわけで、今後の進め方ということで技術的なストーリというよりはちょっと心情的な話をしているわけですが、このプロジェクトの特徴は、わりと原則論にこだわるというところにあるのではないか。原則論にこだわるというのは、世渡りがへただと世の中ではなるはずなので、そういうことからすると、かなり不器用なプロジェクトではないかと思います。しかし、むしろ不器用であったからこれまでやってこられたのだと思います。世間的にもっと玉虫色のプロジェクトにすれば、もっと拒否反応が少なかったのではないかという意見もありましたが、そうしていたとしたら、5年前、あるいは4年前は楽だったかと思いますが、別の問題が発生して現在混乱を招いているということになったのではないかとも思っています。過去にいろいろご忠告も受けたのですが、私は安易に原則を崩すとか、妥協するというのは、せっかく成功の可能性のあるプロジェクトを崩す元だと思います。立てた原理原則が間違っていればまったくしようがないんですが、その時には別のちゃんとした評価なり体制の変更があると思います。そうでない限りはいちばんの基本は変えない、妥協しないというのが大事だと思います。

研究計画の基本枠組みと今後の展開

 このプロジェクトは原理原則に関しては、これからの5年についても妥協しない。基礎技術を作るという面で、大いに追及する。応用をもっとやったらどうかという声もありますが、われわれとしては、そういうこともプロジェクトの一環として、バランスのとれる範囲でやっておりますが、それは別に応用というものだけで評価を得ようというのではなく、それを基本技術にフィードバックしようということで取り扱っています。これまでもそうやってきたわけですが、これからもそういうふうに持っていきたいと思っています。

 これから本日の後半、明日にかけて、技術的な側面から過去1年あるいは若干その前にさかのぼったこのプロジェクトの報告をさせていただくわけです。それと同時に、ご案内のように、今回は、デモンストレーションをかなり本格的にやるように企画しました。昨年もPSIを2台持ち込みまして、試みにやったんですが、今年はもう少し本格的にということでデモンストレーションをお見せしたいと思います。

 こういうものが完成したということではなく、このプロジェクトで進めているいろいろなテーマの研究開発のプロセスを、ある時点で切ってお見せしているというふうに見ていただきたいと思います。研究開発の途中の腹わたのようなところを見せるということで、仕上がって、こんなにうまくできている、こんなに美しいということよりは、こういうところにも苦労がある、こういうところは評価してもらえるかもしれないという両方取り混ぜた実態ベースで見ていただきたいというのが趣旨です。

 デモンストレーションや報告を通して、私たちのプロジェクトの実態を知っていただき御批判や御意見をいただければと思っております。そして、これから5年のプロジェクトの進行について、これまでと変わらぬ、あるいはこれまで以上の、皆さんのご理解やご支援を頂ければと思っております。ちょっと時間を超過して申しわけなかったんですが、私の話を終わらせていただきます。 どうもありがとうこざいました。