「新しいコンピュータ文化の創造」とは何かを問う

コンピュータは人間の文化とどのようにかかわるか

ICOT・研究所所長 / 渕 一博



プロジェクトの前期3年目から、次の中期に向けての準備が進められつつある なか、1984年6月の成果報告会で渕所長が行った基調講演の内容は、この 年のシンポジウムのテーマに沿った「新しいコンピュータ文化の創造」であっ た。コンピュータ技術を人間文化とのかかわりでとらえ、いま変化の波が世界 的規模で起こっていることを予感するとして、世界中に5Gの輪を広げようと 呼びかけた。極めてユニークな講演として好評を博した。

コンピュータが人間の歴史に果たす役割

 渕でございます。元岡達先生の特別講演に引き続きまして、基調講演というような 役割をおおせつかっておりますが、技術的な話については、本日の午後、あるいは明 日ということで、後ほど詳しくご報告申しあげることになります。そういうことで、 技術的なところを抜いて何か話すということになりますと、なかなか苦しいわけでし て、ご挨拶がわりのお話をちょっとさせていただきたいと思います。

 題名は少し気取りまして、あそこに書いてありますようなこと(新しいコンピュー タ文化の創造)になっているわけですが、題名にふさわしいお話ができるかどうかは、 試みてみないと分からないと思います。

 昨年のこの会のときにも、基調講演ということでお話をしまして、そのときには、 このプロジェクトの意義というようなことをお話ししました。このプロジェクトの一 番大きな意義というのは、コンピュータの歴史の中で第2の段階、新しい歴史的な段 階を作ることであろうというようなことを申し上げまして、あと、パラダイム論を援 用して、現在のコンピュータの中心的な思想になっているチューニング・パラダイム からフレーゲアン・パラダイムに移行するというようなことではないかというお話を したわけです。このことは、別の言葉でいえば、新しい文化を創造するための努力の 一つが、このプロジェクトであると言っていいと思っています。文化という言葉もな かなか難しい言葉であるのですが、私としては、単に言葉の飾りとしてよりは、もっ と深い意味合いがあると思っているわけです。

 そのうち一つの視点は、コンピュータという技術、あるいはコンピュータという機 械が、人間の歴史の中で果たしている、あるいは果たそうとしている役割というもの と関係があると思っています。

 よく、文化、文明ということを言うわけでして、英語ではどうか分からないのです が、日本語の場合には、文明は物質文明、文化のほうには精神文化というふうな対立 したような、対峙させたような表現があるわけです。

 コンピュータの出現の意義というのは、人間の文化という側面に関わってきている ところにあるのではないかと思っています。従来の技術、機械技術、エネルギー技術 等々というのは、この物質文明というところに関わっていて、まさにそれを支えてき たわけですが、コンピュータの出現は、そういうエネルギー、物質というところから、 人間の精神という領域に関わってきているということが非常に大きいのだと思います。  本来ならば、このことは、歴史学者、あるいは社会学者等にお願いしなければいけ ないのですが、人間の歴史の中での情報の役割、情報歴史学とか、情報社会学という のが、もっともっと進展しなければいけないと思うのですが、コンピュータというの は、そういう関わりがあると思っています。

コンピュータは言葉を持った機械である

 これはどうしてかということを考えてみると、われわれの文化を成り立たせてい る非常に大きな要素というのは、言葉の存在、言語の存在であると思うわけです。

 もちろん、この文化というものの中には、言葉だけではなくて、もっと広いものが あるわけで、たとえば食べ物、どういうものを食べるかとか、どういうふうに料理を するかといったことは、民族の文化の一部になっている。これは必ずしも言葉に支え られているわけではありませんが、しかし、人間の文化と言ったときに、言葉の果た す役割は非常に大きいものがあると思います。これに対する関心は、いつも歴史の中 にあるわけで、最近でも記号論の流行というようなものは、言葉に対する関心、言葉 と人間の関わりというものに対する関心の現れだといっていいわけです。

 ところで、コンピュータはどういう機械かということを、皆さんに改めて言うこと もないわけですが、私がそれを一言で言ってしまうと、コンピュータとは言葉を持っ た機械であり、言葉を扱う機械であるというところが、まさにコンピュータの本質で はないかと思うわけです。

 ここでいうコンピュータの言葉とわれわれの言葉は、若干のくい違いがあるわけで すが、言葉という意味では、実はこれは単なるアナロジーではなくて、やはり両方と も言葉なのです。

 そういうことからしますと、言葉を持った機械は、一つの文化を持ちうると言って いいと思います。実際に言葉が存在するということによって、コンピュータの技術の 中ではどういうことが起こっているかというと、その言葉の上で、いろいろな情報を 表現して蓄積する。これがソフトウェアという形になって蓄積されていく。したがっ て、このソフトウェアが存在して果たす役割が大きいというのは、コンピュータが言 葉の機械であるということと、まさに表裏一体なわけです。

 このソフトウェアが存在するというのは、一つの小文化というか、小さな文化圏を 作っているわけです。基本となる言葉を変えれば、その上に乗っているものを言い直 さなければいけないというようなことがあるわけで、ソフトウェアは言葉にのっとっ た新しいタイプの文化であるということが一つあります。

ソフトウェア体系とユーザー層で文化圏を形成

 文化は人間にとって非常に本質的な存在ではあるわけですが、ある意味で継続性が あるというか、保守性があるということは、人間の文化について言えるわけです。一 つの国の文化が、全く別のものに変わるということは、歴史の中でもきわめてまれな わけです。

 それを支える言語自体も、世界の中に統一的な言語があればいいと言われながらも、 決してそうはならないわけで、日本人は日本語、英米人は英語というものから、きっ と未来永劫に近いほど離れられない。そういうふうに非常に基本的であり、その上に 構築されたものは、一つの体系を持ってなかなか変わらないということは、人間の文 化の場合にも観察されるわけです。

 これと同じことは、コンピュータ文化にも言えるわけでして、現在のコンピュータ の上に築かれたソフトウェアの体系全体、コンピュータ技術の体系とも言っていいと 思いますが、これも一つの文化でありまして、簡単に右から左に変えられないという ことがあるかと思います。

 これは、一つは言葉を持った機械であり、その上にいろいろなものが構築されてい く。その構築というのは、次々増えていくということに大きく関係していると思うわ けです。

 2番目に、言葉を持っている機械であるということは、人間との関わり合いにおい ても大きいわけです。コンピュータというマシンがあるわけですが、これのハードウ ェアの設計は、非常に閉じた世界かもしれませんが、ソフトウェアまで含めたもので 考えると、いわゆる設計者の広がりは非常に大きいわけです。

 ソフトウェアを作ったり、それに携わったりしている人が、自分をデザイナーだと 思っているかどうかは知りませんけれども、やはり広い意味では、かなりエンドユー ザに近いところでプログラムを作っている人も、やはり新しい機械の一部を設計して いる設計者であるわけです。

 これはほかの技術とは非常に違うわけで、たとえば自動車であれば自動車の設計者 がいる。片方にユーザがいるわけですが、この境界は非常にはっきりしているわけで す。かなりの人が運転できるわけですが、自分で機械の中に手を入れてやるというの は非常に少数のマニアでしかない。

 あるいはテレビでもそうなので、テレビのデザイナーがどこかにいて作ってくれて いるわけですが、普通のユーザというのは、それをボタンを押して見るわけで、自分 で作ろうという人は非常に少ない。そこの境界は非常にはっきりしています。

 しかしコンピュータは、ソフトウェアまで含めると、そこの境界は非常にぼけてい る。非常に大きく広がっているわけで、コンピュータのユーザというのは、テレビの 視聴者、あるいは車のドライバーとは違った意味でのユーザなわけです。

 このことも私は、コンピュータが言葉に関わるマシンであるということと重ねて考 えたい。そういうことで、コンピュータのユーザというものの広がりがあるわけです。 この人たちは、やはりコンピュータ用の言語を覚えて、それでいろいろな仕事をして いるわけです。そこにも一つの文化があると言っていいと思います。

 あるいはもっと正確には、コンピュータのソフトウェアという形で蓄積されている 物質的なものと、それを取り巻いているユーザ層というものを含めて、一つの文化圏 をなしていると言っていいと思います。

 私は先ほど、そういう文化が持つ特質からして、それはなかなか変わらない面があ ると言ったのですが、それでは未来永劫変わらないかというとそうではないわけで、 やはりある時間がたてば、次の新しい歴史的な段階というのは、いずれ必ずくると言 っていいと思います。

 人間の文化の場合には、人間のハードウェア自体が何万年かほとんど変わっていな いそうでして、古代人とわれわれとを比べても、どっちがどうという差はない。どっ ちが頭がいいということはない。単に歴史的な状況で、昔の人と今とでは暮らしが違 いますけれども、人間のハードウェアは全然変わっていないわけです。そういうこと もありまして、人間の文化の交替のサイクルは非常に長いわけです。

第2コンピュータ文化の創造

 しかし、いま考えているコンピュータ文化は、その文化の中のサブカルチャーなわ けで、これの交替のサイクルは、人間の文化の変化に比べればもっと軽いわけです。 そういうことで、われわれの第五世代のプロジェクトというものの別の表現は、現在 のコンピュータ文化に代わるというか、それに引き続く第2の新しい文化を作るんだ というふうに見ていいと思います。

 この文化について、もう一つ言いたいのは、文化は変わりにくいわけですが、変わ るときには変わる。その変わり方は、局部的に少しずつ変わっていくというよりは、 いろいろな要素が既存の文化の裏のところで動いていて、それがある時期に、ある一 つの方向を持ち出す。そういう時期になって、次の時代が始まるのだろうと思うわけ です。

 ですから、現在進めているような第五世代プロジェクトを、任意の段階でスタート できたか。たとえば10年前にやって良かったかとか、20年前でも良かったかと言えば、 そうは言えないわけで、現在の段階でスタートできたということは、かなり必然的な ものがあると思っているわけです。

 どうして第2の新しい文化を想定できるかということについては、去年も議論をし たわけですが、今さら言うまでもなく、いろいろな構成要素が実は進展しつつある。 一番簡単な例で素子などにしても、超LSIの進歩は、現在のコンピュータ技術というか、 コンピュータ文化自体を支えているわけですけれども、それがもっともっと進歩する ことを想定すると、実は新しい文化の支えになる程度に成熟、成長しつつあるという ようなことが言えるわけです。

 あるいはソフトウェア工学の研究というものも、現在のソフトウェア体系、ソフト ウェア文化をなんとかしたいという問題意識で出発しているわけですが、その中から 実は、次の時代への芽が出てきている。

 関数的プログラミングにしても、論理的プログラミングというような考え方にして も、あるいは対象指向プログラミングという考え方にしても、ある種の機械独立とい う、現在の機械の構成から独立した形での言語設定をしていかなければならない。そ れは実は現在のハードウェアの体系でいいというのではなくて、新しいハードウェア を、実は暗に要求しているということがあるわけです。

 あるいは人工知能の研究にしても、このゴール、私は永遠の課題だと思いますが、 いろいろな進展があって、一部実際の役に立つ場面も出てきている。これは現在のコ ンピュータの上で展開されていますから、そのままの形で進むかというと、私はそう も思っていないわけです。

 もちろん当座、現在のコンピュータの体系の上でエキスパート・システムの開発だ とか実用努力は、片方で必要だと思いますが、そういう分野がもっと伸びていくため には、実はその支えになっている基礎のテクノロジーが変わらないといけない。そう しないと、ある程度の規模でとどまってしまう。エキスパート・システムというのは この程度であろうかというところで、とどまらざるを得ないというふうに思います。 ですから、そういう知識工学とか、エキスパート・システムへの関心とか、そちらの 進歩というのは、それを支えるコンピュータ自体の体系の変化というものを求めてい ると思います。

技術的要素を見直し新しい絵を描く

 そういうことで、いろいろな要素が、現在の文化の上で成長しつつあります。そう いういろいろな要素、いろいろな芽がある程度揃ったところで、次の歴史が見えてく るというように思うわけで、単にエキスパート・システムだけを見ていて、それでず っと先を見通すということも難しい。

 あるいはアーキテクチャというところだけを眺めていてもだめだ。あるいはソフト ウェア、現在のソフトウェアだけを覗きこんでいてもだめだ。そういう関連するもの が1セットになって、新しい体系のほうに向いていくということが必要だろうと思い ます。

 現在、そういう時期にきている。時期にきているという意味は、次の時代を目指し て動きだす、研究開発をし始める時期がきているというふうに思っているわけです。

 そういう時期がきているか、機が熟してきたかということについては、たびたび議 論している技術的な観点、いろいろな研究の分野での動きというものがあるわけです。 それを元にして、このプロジェクトの基本的な計画は作られているわけですが、先ほ ど元岡先生から、中期という次の段階に進むにあたって、いい意味での見直しをしな さいというご指摘があったわけですが、私は前からの議論を蒸し返しているつもりで はなくて、そういう観点で、多くのいろいろな人に、この問題をもう一度考えていた だきたいと思うわけです。

 いろいろな技術的な要素を見直して、それぞれなりに新しい構図が描けるか。全く 新しくなくてもいいわけで、われわれがこれまで描いてきた構図の、さらに発展した 形であれば一番幸いなわけですが、そういうふうにこだわる必要もなくて、新しい構 図が描けるかどうかということも、それぞれの立場で、もう一度やっていただく段階 ではないかと思うんです。

 これはどんな感じなのかというと、一つのジグソーパズルのようなものかなという 気もします。文化といいますか、一つの技術体系というものを、1枚の絵にたとえる と、その絵の中にはいろいろな模様があるわけで、またそれは、その模様とは違った 若干の部品から成り立っている。

 ですから、崩してしまうと何がなんだか分かりませんが、組み立ててみると、一つ の絵が浮かび上がる。現在のコンピュータの体系は、一つの絵になっているわけです。 ですから一つどこかをはずすと、ぎくしゃくして成り立たなくなる。

 その部品を全部1回ばらして、新しい部品も追加されているわけですが、それを入 れて、ジグソーパズルをもう一度組み立てるような試みをしてみる。そうすると、も ちろん今ある絵というのは存在しているわけですから、そういう絵はあるわけですが、 別の新しい絵が見えてくるだろうと思っているわけです。

 そういう新しい絵が見える時期にきたというのが、数年前の判断ですが、この絵と いうのは、少数の人が見えていると主張するだけではなくて、皆がなるほど、こうい う絵が見えているから、その方向に努力しようということでなければならないわけで す。中期に入るにあたっては、このプロジェクトのスタート時、前段階よりももっと 大きな規模で、そういう試みが必要だろうと思います。

 いろいろな人が自分なりの絵を描いてみる。ジグソーパズルを組み立ててみる。こ れが結果的に、ほぼ共通の絵になってくるということであれば、さらに大きな努力の 輪が広がるわけでして、本当に新しい時代の実現が近くなってくると思うわけです。

 私自身としては、そういうふうになっていくだろうと思っているわけですが、この 結論を、私たちの絵のままで、これを無批判に採用してほしいと言っているつもりで はなくて、それぞれやっていただけると、共通の絵が描けるという確信を持っている わけです。

 このジグソーパズルをやるときの一つの希望としては、全体をカバーするような絵 を作ってみる努力が必要だと思うんです。局部的にやりますと、いろいろな組み合わ せができて、こんな絵も描ける、あんな絵も描けるというのは確かにあるわけですが、 それをずっと広げて一つの統一的な絵にするというところで、共通の認識が生まれて くることが大事だと思うわけです。

 たとえば細かい議論で言うと、われわれの計画の基本には、ロジック・プログラミ ングというものを基本的に採用しようということを言っています。ところが往々にし て、これが非常に狭くとらえられて、いや、おれはロジック・プログラミングではな い、ファンクショナル・プログラミングだと言ってみたり、いや、そういうものでは ないんで、オブジェクト・オリエンテッド・プログラミングが、おれは好きなんだと いうようなことが、結構議論されています。

 これが、なぜか対立的な議論になることがままあるわけです。私は実は全然そうは 思っていなくて、これは新しい時代に向けての、いくつかのコマの側面であろう、そ れはまたバラバラなものではなくて、比較的近い将来に一つに融合されていくもの、 ですから別の言葉で言うと、コンプリメンタリと言うか、相補的にいくつかの側面を 追求しているものだととらえたいわけです。

 ですけれど、そこの局面だけを見て考えると、いや、おれはオブジェクトだ、おれ はファンクショナルだ、おれはロジックだというような、割と狭い対立になる危険も あるわけです。それに近い例はほかにもあるわけで、知識表現というようなことも、 ある局部的なところだけで知識表現ということを工夫しますと、たぶん次々に知識表 現言語というのは発明できるわけで、論文をたくさん書くだけが目的であれば、それ も多彩な成果ということになるかと思いますが、その経験はむしろ対立するものでな くて、相補うものが多いと思うわけです。そういう観点で見れば、いろいろな努力を つないでいくことができますし、またそこに新しい絵が広がってくるというふうに思 います。

 とかく研究者というのは、周りから、独創的でなければいけないというような教育 ママ的な発言があるものですから、とにかく論文を書かなければいけない。人と少し でも違ったことをしなければいけない。自分なりの新言語を発明したりするというよ うなことで、独創性を出したがりますが、それはそれで必要な努力のうちの一つです が、常にそうではなくて、そういうものも、ある時期にはまた大きくまとまっていく 時期があるわけで、その時期が近づきつつある。いま来つつあると、私は見ているわ けです。

新時代到来前夜の予感

   この新しい時代の到来というのは、そういう作業からも見えてくるわけですが、も う一つは、いろいろな人が、やはり先のことを考えているということがあると思うん です。このプロジェクトが国の内外から、たぶん多くの予想以上の注目を集めている という結果に、現在なっていますが、これも考えてみると、日本のプロジェクトが突 然現れて、それを見てみるとおもしろいということで注目されたというふうに、私は 単純には思っていません。

 たぶん、非常に明確な形では現れなかったにしても、同じような考えに近づきつつ あった。非常にぼんやりした形、あるいははっきりした形で、いろいろな人がそうい う感じを持ち始めていたところに、タイミング良くというか、若干早めに日本が一つ のイメージを提出したというわけで、これは人間の会話の場合もそうですけれども、 発信者のほうだけのメッセージが、非常にパッシブな形で、相手にただ伝わっていく というものではなくて、相手のほうにも受け手のほうにも一つのイメージがある。

 そのイメージの発見のきっかけになるようなものとして、言葉が作用したりするわ けで、私としては、現在の世界的な反響というのは、やはり次の時代への前夜といい ますか、そういう時期にきていたということを、いろいろな人たちが無意識的、ある いは意識的に感じつつあったところに、新しい刺激が加わって、それが急激に表に現 れてきたというふうに見たいと思います。

 それと同じ感覚は、この分野の研究が、この数年、特に盛んになっているという現 象にあります。特に若い人たちが、ICOTの中だけではなくて、日本中のいろいろな若 い研究者たち、あるいは世界的に見ても若い人たちが、非常に興味を持って、新しい 研究を活発に展開しつつあるわけです。

 これも非常に冷静な、皮肉な人から見れば、一つの流行に乗っているというふうに 批評する人もいるかもしれませんが、私はそういうふうにも思えない。一種、流行の ようにも見えますけれども、実はそうではなくて、新しい世代の人たちが、自分たち が将来担うであろう、次の時代への予感を持ち始めているというところにアピールし ているのではないかと、非常に手前味噌ですけれども、そう思っています。

 新しい時代の予感がどこから生まれてくるかというのは、なかなか難しいわけで、 非常に単純に、人生経験を豊富に積めば、新しい時代が予感できるかというと、どう もそうではないというのが、人間の歴史が教えるところです。

 経験を積めば積むほど、新しい時代が見えなくなって、頑迷固陋になるという傾向 もある。そうでない、すごく立派な老人もいらっしゃるわけで、十把ひとからげには できませんが、傾向的に言うとそういうことがある。

 そういう人たちから比べると、勉強も大学でちょっとやったぐらいで経験も少ない、 そういう若い人たちが、過去においてもやっぱり歴史を切り開いてきたわけですね。 彼らが、新しい時代を切り開く判断をどこから得たかというのは、なかなか難しいわ けです。証明された結果を採用するのならば、これは簡単ですが、そうではない。

 いろいろな知識の豊富さ、経験の豊富さから導き出したかというと逆なわけで、私 はちょっと非科学的な考えを持って、人間というのは、ある時期になると、次の時代 を何か予感する動物的な感覚を持っている。そういうものに基づいて、次々に歴史が 発展してきたのだろうと思います。

 非常に大きくうまく変わるときは、そういう世代を中心にして、上の世代が、若い 世代をうまく育てたというような形で、次の時代が開けるのではないかと思っていま す。そういう非常に乱暴な主観的な考えを交えて考えますと、現在、日本の中におけ るいろいろな研究の高まりというのは、単に第五世代がスタートしたからではなくて、 それは新しい動きへの刺激だったと言ってもいいぐらいではないかと思うわけです。

 たとえば情報処理学会における発表テーマも、こちらのほうから見て、第五世代に 関連すると思われるようなテーマが、3分の1近くあるのではないかということがあ りますが、この3分の1というのは、別にICOTの発表が3分の1を占めているわけで はなくて、もっと広い活動の結果、そうなっている。その活動というのは、だれかに 命令されてやっているわけではなくて、もっと自発的に起こっているというようなこ とがあります。

 それに類することは、世界中にあると思います。今年の秋に私どもが計画している FGCS84、この4日間の計画のうち、前の2日は、この3年間の第五世代プロジェクト の成果報告ですが、後半2日間は、いわゆる学会の論文発表ディスカッションという 形式にのっとった企画にしてあるわけです。

 そのために論文募集、コールフォーペーパーをしたわけですが、この論文応募とい うのも、当初の予想をはるかに上回って、200件以上の発表申し込みがあったわけです。ということで、プログラム委員長をお願いしている相礎秀夫先生は嬉しい悲鳴という か、非常にご苦労をしていただいているわけです。

 これも、世界中に新しい研究が活発になってきている。これはまさに世界的な動き であって、これまで外国のプロジェクトの紹介もありましたけれど、そのプロジェク トはまだスタートしようかしまいかという議論が行われているところで、その結果で はないわけです。

 むしろ、それに並行して、もちろんそれに刺激されてということはあると思います が、世界的にいろいな研究者が、新しい方向を目指して研究を始めている。というこ とで、情報処理関連、あるいはコンピュータ関連の研究が再活性化されつつあるわけ です。世界的にそういう傾向があります。

 このこと自体は、一つの新しい時代への予兆であろうと思うわけです。というわけ で、この計画段階、あるいはそれを含めると数年が経っていますけれども、この数年 を経過して感じることは、細部の点は別にしても、基本的な線においては、この数年 でいろいろなことが、われわれの想定した基本線を支える、支持するような方向にあ るように思えるわけです。

 これは自慢して言っているわけではなくて、そういう方向に進まなければいけない ということの確信を深めさせるものだと思っています。

オープン・プロジェクトの意味するもの

 このプロジェクト自体は、ナショナル・プロジェクトでして、日本の国内で言うと、 かなり大柄なプロジェクトです。米国等に比べると、豆粒みたいなプロジェクトかも しれませんが、国内では非常にしっかりした予算的な援助も得ている大きなプロジェ クトですから、それなりに大きな役割を果たさなければいけないと思っています。

 私自身もそういうふうに思っていますが、それと同時に大事なことは、新しい時代 というのは、世界の中の一部である日本の中の、また一つのプロジェクトだけで、新 しい時代がくるかというと、そうではない。

 日本の中だけで言っても、これがプロジェクトという形になっていようがなってい まいが、もっと広い、いろいろな研究活動とうまくつながっていって、それが総合され る。これは世界的にもそうであると思うわけで、そういう世界中の研究努力というも のが、一つの方向で進み出したときに、本当に新しい時代の到来が近づくと思います。

 なぜ、そういうふうに言うかということの裏には、やはりコンピュータが一つの文 化だ、この技術というのはオープン・エンデッドなわけで、これは現在のものでもそ うですが、次の時代の第五世代的なコンピュータ技術の体系もオープン・エンデッド であって、それに関わる人々が増えないと、新しい次の文化というのは根付かない。 文化というものは、人々が支えるということからすると、やはりそういうたくさんの 人が必要です。

 よく漫画等に出てくる、どこかに隠れて大発明をして、それを売り出すと、たちま ち売れて大企業になってというような意味での成功ストーリーというのは、ぼくはコ ンピュータの分野では想像しにくいと思います。どこかの天才が、地下室で新型の第 五世代か第六世代かを発明してしまって、それで歴史が変わるということは、コンピ ュータの場合にはなかなかありえない。

 それはなぜかと言うと、別に天才的なものが不必要だということではないわけです が、技術がオープン・エンデッド、要するに広がりを持っている、常に成長していく ような技術であるというところに、そう考える元があるわけです。

 もちろん、天才というのはたくさん出てきてくれたほうがいいわけで、日本の中で も、これからそういう人たちが出てくると思います。だれを天才と言うかというのは、 結果を見てから言われることが多いわけで、歴史の中では、生きているうちにはだい たい認められなくて、バカだのチョンだのと言われた人が、後世では天才と言われて いるケースが結構多いわけです。

 コンピュータの分野でどうなるか知りませんが、いずれにしてもそういう才能、天 才と呼ぶか呼ばないかは別としても、新しい技術を作るような才能というのは出てく ると思います。

 その辺について、私は非常に予定調和的な発想を持っています。これまでそういう 人がいなかったから、日本は新しい技術の創造に向かないんじゃないか、独創性がな いんじゃないかと言われたりしますが、これは今西錦司先生の進化論的な表現を借用 しますと、そういうものは出るときには出るんだ。出るべくして出てくるんだと思っ ています。

 現在の段階で、じゃあそれが何年後であるか、だれがその人であるかというふうに 名指しはできないわけですが、この10年間にはそういう人たちがたくさん出てくる。 出るべくして出てくるんじゃないか。ただ出るべくしてということは、受け身の形で 放っておけば出るということではなくて、出るような体制、環境設定、いろいろな研 究交流の場とか、そういう環境づくり等を前提にして、出るべくして出るだろうと、 私は思っているわけです。

 これまで申し上げましたように、このプロジェクトというもの自体も、完結したプ ロジェクトではない。完結という意味は、閉じたプロジェクトではないと思っていま す。直接に関係する人も、これから増えてくると思うのですが、また間接的に関連す る人も増えてくる。そういう全体の動きというものを、うまく育てていくという立場 が必要だと思っています。

 その中でICOTが、一つの大事な役割を果たさなければいけないと思っていますが、 そういうことを前提にした上で、また今後もさらに、いろいろな人のご協力を得たい と思っています。

 昨年にもまして一般論をやりました。なかなか慣れないことで、何を言っているの か、全然つまらない話で時間をつぶされたとお思いになる方もいらっしゃるかもしれ ませんが、プロジェクトを進めている者の気持の一部でも汲んでいただければ幸いだ と思います。

 細かいこと、具体的なことは午後、あるいは明日、じっくりお聞きいただきたいと 思います。それでは、どうもありがとうございました。