3.3.2 世界における日本の強みと立場を活かした基礎研究開発 中島克人 委員
3.3.2.1 はじめに
日本経済の長期低迷により企業の設備投資は冷えきっており、本来はリストラや業務効率化に必要な情報処理関連投資も、米国製のプロセッサと米国製のOSを搭載した安価なパソコン以外は極端な落ち込みとなっている。企業では研究開発投資も新人採用も抑制基調のままで推移している。日本の特に情報関連の産業および技術の地盤沈下はどんどん進んでおり、今後景気が好転したとしても、取り返しのつかない状況に陥っているのではないかと危惧する。
国の施策としてプロジェクトを起こし、この地盤沈下に歯止めをかけ、更に浮揚を図るためには、良いテーマと良い枠組み(人・組織・法律)と国民や企業の期待・理解などの条件を揃えなければならない。グローバル化したこの世界の中で、「日本で行うことにより成功した」と振返ることが出来るようにするためには、日本の特徴、長所・短所等の現状を考慮したプロジェクト立案が必要である。
本報告ではまず、ケーススタディとして、筆者が考えるプロジェクト候補技術分野について述べる。将来社会のニーズは勿論のこと、日本の得意とするデバイス開発の要素があるのか、標準仕様を策定する要素があるのか、標準仕様の下にデバイスから応用ソフトまでの縦横に広がりを持ち得る領域であるのか等の観点で議論する。次に、基礎研究開発プロジェクトの立案・選定において考慮すべき日本の特殊性について検討し、最後にまとめる。
3.3.2.2 ケーススタディ
ここでは、計算パワーを必要とする候補領域として、「情報セキュリティ」と「分散シミュレーション」の2つを取りあげる。
(1) 情報セキュリティ
インターネットの一般庶民への普及により、エレクトリックコマースが急拡大しつつある。従来の企業や個人のプライバシー保護以上に電子マネーの安全利用は重要視されるため、情報セキュリティ技術の利用・普及は急ピッチである。エレクトリックコマース等では多数のクライアント側と小数の売り手や認証センターにおけるサーバ側で情報セキュリティのための先進技術が必要となる。
クライアント側での本人認証には指紋・顔・虹彩・声紋等の生体情報を利用することが研究されているが、そのためには認識装置が必要である。安価で誤認証の少ない高速な装置とするために専用デバイスの開発が必要かも知れない[1]。また、パスワードや注文内容の暗号化を高速に行うための仕掛けも必要であり、現実的には解読不能とするためには複雑で時間のかかる暗号アルゴリズムを採用しなくてはならなくなっている。
暗号には秘密鍵を受発信双方で共有する秘密鍵暗号(共通鍵暗号)と、受信者が公開した鍵で送信者に暗号化して貰い、受信側で秘密鍵で複号化する公開鍵暗号がある。後者の方が安全性の高いと言われるが、暗号化に前者の10倍以上の時間(ワークステーションで数十msのオーダ)がかかるため、ある程度の分量のコンテンツは秘密鍵暗号方式で通信せざるを得ず、その秘密鍵の配送のみを公開鍵暗号で送信することが多い。
秘密鍵暗号の安全性は鍵長が大まかな指標となるが、米国で普及している56ビット鍵長のDES(Data Encryption Standard)ではもはや安全ではないと認識されだした。というのは、RSAが主催するDES解読コンテスト(DESチャレンジII)において、1997年6月にはインターネット上の70,000台の計算機で手分けして32日で解読が成功し、翌年の1998年7月にはEFF(Electronic Frontier Foundation)が開発したDES-Crackerという専用マシンによりわずか56時間で解読されてしまった[2]からである。DES-Crackerでは専用に開発されたLSIが1800個用いられているが、サーバタイプの筐体数台分に収納されており、決して大袈裟な並列マシンではない。日本でも広く利用されているFEALのような64ビット鍵長でも、LSI技術の長足の進歩と解読ノウハウの進歩により、全く安心ができない状況になって来た。
暗号技術は盾と矛の関係にあり、暗号の安全性評価、即ち、暗号の破られにくさの研究は、暗号解読を試みることにより行われる。情報化社会の健全な発展に寄与するために、米国のNSA(National Security Agency)に対応するような組織を作り、利用側技術(=盾)として公開鍵暗号や鍵長64ビットを超える秘密鍵暗号の高速化のための専用デバイス開発、安全性評価技術(=矛)としてLSI技術を駆使したより強力な暗号解読マシンの開発を指揮・統合し、標準化を推進すると共に、認証業務、クラッキングの情報収集・蓄積なども行ってはどうであろうか。生体情報認識も古くて、かつ、今でもチャレンジングな研究テーマである。インターネット上での認証だけでなく、一般のセキュリティ関連への応用も広く、市場は小さくない。
(2) 分散シミュレーション
マイクロプロセッサの長足の進歩により、文房具や玩具としてのパソコンやゲーム機の性能はかなり満足の出来るレベルに達したのではないだろうか。プロセッサの能力が上がればそれだけ重いソフトウェアが現れると言われて来たが、数万円のゲーム機で高解像3次元グラフィックがリアルタイムで滑らかに動くようになると、これ以上を望む人は一般大衆の中では少数派となろう。即ち、プラットフォームとしては成熟期を迎えつつあるのではないだろうか。
計算機の高速化・大容量化が現状でもまだまだ望まれ、当面それが際限なく続くと思われるものの代表例は科学技術(物理・化学・環境等)・産業(設計・製造)・経済・政治・教育/訓練等におけるシミュレーションであろう。
平成8年度の報告書で、仮想実験室としてのシミュレーションが今後とも有効である分野を「倫理的理由」「社会的理由」「実現性の理由」「費用・開発速度的理由」に分けて議論した。シミュレーションにおいてはモデリングが重要であるのは間違いないが、これはそれぞれの応用分野の専門家に譲るとして、ここではシミュレーションのためのプラットフォーム技術に関して述べる。
この分野では精度向上・規模拡大・機能拡張のための有効な手段は並列処理もしくは分散処理である。特に最近ではスケーラビリティとコスト価格比を指向する分散シミュレーション技術、即ち、複数のワークステーション(WS)やパソコン(PC)上にそれぞれ搭載されたシミュレータを連係動作させる技術が注目を集めている。同じ構成要素を持つシミュレーションシステムでも、その目的やデータにより要求されるメモリ容量や応答性能が異なる。マシン単位のスケーラビリティ、もしくは、機能モジュールのプロセス単位のコネクタビリティが確保されれば、ソフトウェアの再利用性と拡張性が高まり、システムの開発コスト低減に対する効果も高い。
2000年にIEEE標準化が準備されている分散シミュレーション接続仕様HLA(High Level Architecture)[4]は、そういった目的のものであり、米国では当初国防総省の強力なバックアップの下で技術開発が開始されたが、現在では宇宙防衛産業界に限らず、シミュレータ業界からネットワークゲーム業界に至るまで一丸となってIEEE標準化を進めている。
図1はHLAをインタフェースとして採用した場合の、異種連係型のシミュレーションシステムの構成例である。HLAはインタフェースを定義しているに過ぎず、それぞれのシミュレータの構成は各自の創意工夫に任されているが、HLAに準拠することにより、モジュラリティの高い設計が促進される。例えば、複数のシミュレーションモデル間の通信や同期実行を仲介するランタイムインフラストラクチャや、シミュレーションの時刻進行を制御するライブラリ、例えば対戦型ゲームといったある応用のタイプに共通なライブラリなど、多くの共通ミドルウェアを最終的な応用とは独立に用意することが可能となった[3]。
HLAの策定は米国の特定のプロジェクトにおいてなされているものではない。3年以上に渡る春秋のワークショップとメール等による密な議論を重ねることにより、標準化と周辺技術開発、そして、HLAに準拠するコミュニティの形成を成し遂げて来ている。ただ、民間のボランティアではこれだけ短期間に仕様の策定を行うのは不可能であろう。米国でこれが可能だったのは、'96年に米国防総省が発表した、2001年以降のHLA非準拠シミュレーション製品の調達禁止宣言であろう。シミュレーション機能を備えてない防衛用システムはゼロに近く、また、米国の製造業で防衛システムを担当していないメーカは少数派であることから、短期間に主要な製造業がHLAの利用技術を身につけさせるのに、米国政府は成功したように思える。
Information Super Highway計画にせよ、HLAにせよ、米国では官側は国家が目指す理想を提示し、技術開発に必要なインフラに対する資金の投入は惜しまず、しかしそれに向けての技術開発は民側にまかせ、産業と経済を独自に活性化させることによって、結果的に国家全体の利益につながる、というビジネスモデルの上に、国家プロジェクトが成り立っている。
我国でも、上記のような枠組みの上で、HLAのような標準仕様をベースにその周辺の基盤・共通・応用技術を発展させるようなプロジェクトを設定すべきである。もしこの分散シミュレーション領域自身であれば、HLAに準拠しつつ更に応用に近い部分での新たなレイヤを策定できるかも知れない。ランタイムインフラストラクチャや共通性の高いライブラリをエンハンスする専用デバイスの開発等に民側が競って参加できるようなものに出来るに違いない。
3.3.2.3 日本の特殊事情とそれを考慮したプロジェクトについて
この20年間に世界で成功している日本の製品・作品には、一般大衆向けの製品、小さくて高機能・高性能な製品、TVゲームやアニメやタマゴッチのような情感に訴えるものが多い。高平均点を目指す均質な日本の受験教育は先端デバイスによる高品質製品を説明できても、TVゲームの世界ヒットは説明できない。理由は分からないが、とにかくこれを日本人の特性と信じて、これらの特徴を備えたプロダクトが誕生または派生するかどうかをプロジェクトのテーマ設定における一つの指標としても良かろう。
一方、日本人は論理的構成力に弱いと言われているが、その結果として、小異を越えた高邁なビジョンの下に標準化を進めるような活動が苦手だと思う。少なくとも情報処理分野では日本発の標準仕様やデファクトスタンダードは殆んどない。また、日本の受験教育および寄り道を不利にする年功序列システムのせいで、複数専攻を持つ人が非常に少ない。情報処理技術は言わば組合せ技術であり、学際的能力が活かせる分野であると思うが、日本で育った者に多くは期待できない。これらの弱点を避けて行くべきか、むしろ克服すべくチャレンジすべきかは判断が分かれるところである。
更に、情報処理の世界における日本の最大の不利は日本語の特殊性であろう。それに加えて、奥ゆかしい国民性からか、情報発信の能力も劣っていると思う。村八分を恐れる強い協調性はあくまでも受け身のものである。そのため、外部もしくは異種のものとの相互作用/切磋琢磨の中から新しい製品を生み出すというよりは、与えられた(多くの場合は欧米製の)モデルを暖め磨いて行くことに長けている。しかし、この言語障壁はどうしても乗り越えなくてはならない。この課題を持たない英語圏の国よりは絶対に技術進歩する筈である。
さて、前章にてスタディした情報セキュリティにおいては、クライアント側の生体情報認識や暗号化に日本の得意とするデバイス開発の余地がある。情感に訴えるようなコンテンツとしては、このセキュアなインフラの下、新規パソコンユーザの旗手である主婦層向けのバーチャルモールなどが考えられる。しかしながら、日本が得意としない暗号アルゴリズムや認証の仕組み等の標準化の要素が重要であり、これは避けて通れない。日本語処理としては、声紋認識等に日本語の特殊性の考慮が必要となろう。
もう一方の分散シミュレーション分野では、デバイス開発に発展するかどうかは不明である。特定のシミュレータエンジンやユーザ端末側の対話機能のために専用デバイスが必要となるかも知れない。標準化については最重要課題である。応用としては、日本が得意とする対戦型ゲーム等をそのまま含み、多くのアイデアが試されることが期待される。
3.3.2.4 おわりに
経済力と技術力を背景に世界経済の三極の一つと見なされて来た日本は、経済の長期低迷に陥いり、今後もその地位を確保できるのか怪しくなってきた。企業は技術開発投資の縮小を余儀なくされ、日本を世界の一流としていた根拠である経済力と技術力の両方を同時に失いつつあるのではないだろうか。
政府は景気刺激策としての補正予算を次々と打ち出すが、従来型の土木・建築等と異なり、情報処理技術分野では予算を有効に活用する仕組みが非常に乏しい。例えば、情報インフラを整備するタイプの研究開発事業は、技術進歩のみならず産業育成に大変有効であるが、省庁の縦割り論理や官民役割分担の建前論により、本来素晴らしいテーマが却下されたり歪曲されたりすることもあると聞く。予算の使途についても、理不尽とも言える足枷が多くあり、融通のなさからかえって無駄が生じる可能性も高い。
規則は人が作り、人を拘束する。しかし、規則を変えることが出来るのも人である。幸い、世論を動かし得るインターネットという手段を大衆は手にした。情報処理分野発展のためには、情報処理技術を武器として既成の制度や考え方などの足枷を取り払うべく、官民の有志が一致して努力していきたいものである。
参考文献
[1] 久間、田中、太田、田井、岩附: 人工網膜チップの開発と事業化、応用物理、pp.424-430, Vol.67, 1998.
[2] RSA Laboratories - DES Challenge II, DES Challenge II home page, RSA Data Security, Inc. Available at http://www.rsa.com/rsalabs/des2/
[3] 並列分散協調型ウォーゲームシミュレーション構築環境の実現と評価、 古市 昌一 他、並列処理シンポジウム JSPP'98, 1998.
[4] IEEE Std P1516 (draft), Draft Standard for Modeling and Simulation High Level Architecture (HLA) - Federate Interface Specification", http://www.sisostds.org/stdsdev/hla/, July, 1998.