デラサール大学滞在記

上田 和紀 (情報学科)
昨年の3月下旬から4月はじめにかけての2週間、マニラのデラサール(De LaSalle)大学に交換教員として滞在し、College of Computer Studies (以下計算機学部と訳す)で、講義や研究交流を行なってきた。

早稲田との協定校であるデラサール大学の名前をご存知の方は少なくないと思うが、それが函館と鹿児島にあるラサール高校と同じ仲間であることに気づいている方は多くないであろう。デラサール大学のホームページ(http://www.dlsu.edu.ph)からたどってゆけるが、St. John Baptist de LaSalleの名を冠する学校は、実は世界のあちこちにある。

デラサール大学は、フィリピンの私立大学の雄である。現在の計算機学部は、1学年360名の定員を擁する大学部であり、フィリピンでもっとも水準の高い計算機科学部でもある。1981年以来徐々に整備され、今ではInformation Technology(180名)、Computer Technology (90名)、Computer Science (90名)の3専攻から構成されている。

大学はマニラ市街にある。ホテルと大学間の送迎車も用意されていたが、それで往復していては街の空気はわからない。旅行者の多い隣のエルミタ地区ではそれなりの注意が必要だが、大学のあるマラテは生活の街である。街角の聖母像や朝市やフィリピン名物のジプニー(乗合ジープ)などを眺めながら、片道20分ほどを歩くことにした。守衛さんに身分を告げ、美しい中庭をもつキャンパスに入ると、中は若々しい雰囲気にあふれている。入学卒業年齢が日本よりも2年早く、また文系のみならず計算機科学部でも、学生の約半数が女子であるということにもよる。フィリピンは男女平等がとても行き届いた国である。

アジアの時代と言われるが、東南および南アジア地域における計算機科学および産業の発展はまことに著しい。香港、シンガポール、タイ、そしてインドなどの一歩先んじた国に続き、フィリピンの計算機分野も、目下、急速な発展途上である。豊富な労働力と英語力に目をつけた海外企業の進出がさかんであり、卒業生は引っ張りだこである。

計算機科学部のfaculty memberの数は約50名にものぼるが、学部長のArnulfoAzcarraga氏は30代前半の若さであり、スタッフもみな若い。その大半は、講義や演習などを担当して給与を得ながら修士以上の学位を目指す多くの若いスタッフである。博士号をもつ計算機科学者は、フィリピン全体でまだ十指に満たないそうである。数年のうちに、これらの若き研究者たちの中から学位取得者を輩出してゆくのが学部の方針であり、今回の訪問のホスト役をつとめてくれたResearchDirectorのPhilip Chan氏も、学位取得を目指しているホープの一人である。あと5〜6年もたてば、計算機科学者の層の厚さは見違えるようになるであろう。

キャンパスは活気にあふれており、教育、研究、そして計算機環境の整備に遅くまで残っているスタッフの勤勉さが印象に残った。大学図書館ではインターネットカフェの開設準備中であり、学部の計算機設備も急速に整備されつつあるところであった。私の机にも、新品の高性能ワークステーションが置かれ、日本から自動転送される電子メールをチェックすることができた。もっとも、ワークステーションとともにもう一つの箱が持ちこまれ、「これ何ですか?」と訊ねると、ニッコリ笑って「UPS (無停電電源装置)です」との答。“brown out”、つまり電力供給の不安定は、フィリピン産業の発展、とりわけ情報化に深刻な影響を与えてきた。ラモス政権はその改善を至上命題の一つとして、成果をあげてきたが、今回の訪問中は一度だけ学内停電に見舞われた。

早稲田と違うのは、デスクトップ型のパソコンを学生ホールに持ち込んで、遅くまで演習の課題や卒論に取り組んでいる学生の姿が目についたことである。比較的恵まれた家庭の子女が多く、パソコンを乗用車に積んで通学している学生も少なくないそうである。学生ホールばかりではない。階段の踊り場でもどこでも、コンセントがある場所にはパソコンが置かれ、友達と相談しながら課題に取り組む姿を見ることができた。

大学院には、学年あたり60名〜70名の修士課程の学生が在籍している。そのほとんどは、学部卒業後、職につきながら学んでいる学生であり、講義も午後6時から9時の間に設定されている。私の連続講義“Introduction to Concurrency andParallelism Using Concurrent Logic Programming”もこの時間帯に行なった。

学期末ということで、学部の各面接室では、卒業論文の審査が連日行なわれていた。私は若いスタッフのTeresita Limoanco嬢に誘われ、その一つの審査に加わった。当学部では4名前後のグループで卒業研究を行なって、論文とソフトウェアを作成する。その最終審査は、約3時間をかけて、ソフトウェアのデモンストレーションを含めて綿密に行なわれる。指導教員以外から選ばれた4名の審査員の前でまず1時間程度の発表を行なった後、詳細な質疑を行ない、学生を退席させての論文検討の後、論文の判定と改善要求を出す、という手順である。

私が同席した審査会は、カトリックの大学らしく祈祷から始まり、発表は面接室に持ち込まれたパソコンを用いて行なわれた。PowerPointを使っての発表は、日本の大学2年生の年齢であることを考えに入れなくても非常によく準備されたものであり、また審査の丁寧さにも感銘を受けた。わずか10〜15分の面接と、論文再審査なしの成績評価ですませている我々は、大いに見習わなければならない。もう一つ面白かったのは、発表の学生たちが、審査員に昼食をおごってくれるという伝統である。午前中の発表が終わると、論文をチェックするわれわれのもとに、ジュースや焼鳥、パンなどが学生たちから届けられ、それをほおばりながら審査を続けた。当地の焼鳥は肉がしみじみとうまい。

食事といえば、Azcarraga氏やChan氏、Limoanco嬢をはじめとする教員諸氏が、毎晩のようにかわるがわる夕食を共にしてくれた。Filipino hospitalityである。日本ではフィリピン料理はほとんど知られておらず、旅行ガイドブックを見ても、料理に関してはあまり誉め言葉が見られないのだが、なかなかどうして、これがとてもうまい。特にシニガン(タマリンドで酸味をつけたスープ)をはじめとするスープ類は大変良く、帰国してからも大久保通りから少し入ったところにある日光商事(エスニック食材店として有名)などでタマリンドを見つけては、何回か作った。主食は米であり、ホテルの朝食には、「洋定食」のほかに、ガーリックライスとmilkfish(ニシンのようなものとも言われるがニシンとはずいぶん違う)の一夜干というフィリピン風が用意されている。(だが味噌汁はむろん出ない。かわりにココアが選択肢に入っている。)これを帰国日の朝に初めて注文し、もっと早くからフィリピン風を試すべきだったと大いに後悔した。

講義の時間帯以外には、コンサルテーションの時間帯を設けて、大学院生の研究テーマに関する相談を行なった。総計10名以上の学生とゆっくり話し合うことができた。

訪問期間の最後はHoly weekと重なり、Maundy Thursday、Good Fridayと休校日が続いた。敬虔なカトリック国の首都のHoly weekを見たくもあったが、美しい海への小旅行の誘惑も断ち切れず、バスとフェリーでミンドロ島に渡った。セブとは異なり、ツアーの他の客はみなフィリピン人であった。Holy weekで帰省中の、ツアーコンダクタの知人の家族が、珊瑚礁の入江の浜でバーベキューの昼食を用意してくれている間、飽きることなくシュノーケリングを楽しみ、夜は、発電機の不調で停電を繰り返す海岸のレストランやコテージの中で、ザックにしのばせておいたヘッドランプをつけて査読論文を読んだ。

Hole weekの行事は、Easter Sundayの夜明けとともに終わる。教会やスタジアムから幸せな表情で家路につく人と車でロハス大通りが大渋滞する早朝、何とか予定時刻にアキノ国際空港に到着し、帰国の途につくことができた。


理工学部報「塔」69号所収、1997年7月